2006年03月15日

国立国会図書館 新編私の昭和史. 3

国立国会図書館での検索結果です。


新編私の昭和史. 3 / 東京12チャンネル社会教養部. -- 学芸書林, 1974

書誌情報 和図書(7/10件目)

請求記号 GB511-25
タイトル 新編私の昭和史. 3
責任表示 東京12チャンネル社会教養部編
出版地 東京
出版者 学芸書林
出版年 1974
形態 301p ; 20cm
各巻タイトル この道を行く
注記 東京12チャンネル社会教養部制作ドキュメント番組「私の昭和史」(司会:三国一朗)を収録したもの
内容細目 抵抗・ある市民の四十年(久野収) 自由と抑圧のなかで(石垣綾子) 河合栄治郎と共に(木村健康) ある田舎医者の記(若月俊一) 昭和漫才風雲録(花菱アチャコ) 紙芝居に栄光あれ(鈴木嘉兵衛) 日本のヌーベルバーグ(大島渚) 戦争体験とゲゲゲの鬼太郎(水木しげる) わが愛の歌(川田俊子,扇谷正造) 太宰治・斜陽と死(太田静子,野平健一) 山びこ学校(無着成恭,川合貞義) ある新聞人の帰郷(むの・たけじ) 紙のこころを求めて(成田潔英) 礼文島、金環食観測記(萩原雄祐) ホンダ慧星発見記(本田実) 広辞苑誕生記(新村猛) 沖縄復帰、二十五年の叫び(仲吉良光、仲吉トヨ,吉田嗣延) 昭和の巌窟王(青木与平) われらがアリの街(塚本慎三) 公害告発の原点(田尻宗昭)
入手条件・定価 980円
全国書誌番号 73019466
団体・会議名標目 東京12チャンネル ‖トウキョウ 12 チャンネル = トウキョウ ジュウニ チャンネル
→: テレビ東京 ‖テレビ トウキョウ
普通件名 日本 -- 歴史 -- 昭和時代 ‖ニホン -- レキシ -- ショウワジダイ
→: 日本 -- 歴史 -- 明治以後 ‖ニホン -- レキシ -- メイジイゴ
NDLC GB511
NDC(6) 210.7
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001228436


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国立国会図書館 太宰治全集

国立国会図書館での検索結果です。



太宰治全集. 10 / 太宰治. -- 筑摩書房, 1999.1

書誌情報 和図書(9/10件目)

請求記号 KH84-G7
タイトル 太宰治全集. 10
責任表示 太宰治著
出版地 東京
出版者 筑摩書房
出版年 1999.1
形態 638p ; 21cm
各巻タイトル 小説. 9
注記 肖像あり
内容細目 メリイクリスマス
内容細目 ヴィヨンの妻
内容細目 母
内容細目 父
内容細目 女神
内容細目 フォスフォレッスセンス
内容細目 朝
内容細目 斜陽
内容細目 おさん
内容細目 犯人
内容細目 饗應夫人
内容細目 酒の追憶
内容細目 美男子と煙草
内容細目 眉山
内容細目 女類
内容細目 渡り鳥
内容細目 櫻桃
内容細目 家庭の幸福
内容細目 人間失格
内容細目 グッド・バイ
内容細目 校異
内容細目 回想・同時代評 グッド・バイのこと / 末常卓郎著
内容細目 回想・同時代評 太宰治との一日 / 豐島與志雄著
内容細目 回想・同時代評 『斜陽』の子を抱きて / 太田靜子著
内容細目 回想・同時代評 「ヴィヨンの妻」 / 井伏鱒二著
内容細目 回想・同時代評 「斜陽」と「處女懐胎」 / 伊藤整著
内容細目 回想・同時代評 「人間失格」をめぐつて / 臼井吉見著
ISBN 4-480-71060-4
入手条件・定価 5900円
全国書誌番号 99068658
個人著者標目 太宰, 治 (1909-1948) ‖ダザイ,オサム
NDLC KH84
NDC(9) 918.68
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000002773587



「太宰治全集. 12 書簡」の昭和21年と22年には、太田静子宛の
11通の書簡内容が記載されている。
posted by ピアノ at 11:49| Comment(0) | 太田静子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

空色のアルバム

空色のアルバム 

1986年5月15日 第六刷発行

ISBN :

定価 :1,100円

発行者:株式会社構想社

著者 :太田 治子(おおた はるこ)

備考 :2007年時点で、新刊本がwww.amazon.co.jpなどで入手
できます。太田静子さんの情報は圧倒的に多い。

    「17歳のノート」「津軽紀行」「二十代のノート」などで
    構成されている。

    「17歳のノート」は昭和42年(1967年)に太田治子さんが出版
    された『手記』と内容は同じ。『手記』は単行本として、赤い
    りっぱな装丁で発売された。

    「津軽紀行」は太田治子さんが、昭和41年(1966年)初めて青森を
    訪問した際の紀行文。この訪問を津島美知子さん(太宰治の妻)が
    こころよく思わなかったようで、波紋を呼びました。


    「斜陽」のモデル太田静子さんの娘治子さんの津軽訪問が波紋
    (動的ページですので、消える可能性があります。お知らせ
     いただければ、バックアップが手元にあります。)

    ■以下は引用■
 
      「斜陽」のモデルとなった太田静子さんから、「一度でいいから娘に
       父親の故郷である津軽を見せたい」と頼まれました。





太田静子





ラベル:太田静子
posted by ピアノ at 21:42| Comment(0) | その他、引用書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秘書

澤地久枝 でも、治子さんの場合はお母さんがほんとに太宰さんを信じてらしたのね。
太田治子 そうですね。ある面では捨てられたと言われても仕方のない立場です。
     けれど父が山崎さんとああいう死に方をしたのを母は、自分は死ぬのが怖かった、
     だから山崎さんが代わりに死んでくださった、ありがとうという感じで、のんき
     というか。自分のことは文学上のことで、好きな人の赤ちゃんができ、もうそれで
     よいという気持ちなんでしょうね。現実は、その後たいへんでしたけどね、育てる
     とか。
澤地久枝 未婚の母って最近流行現象みたいに言われたけれど、治子さんが生まれたころの
     社会では、たいへんな苦労だった。そのわりにお目にかかったとき、お母さんは
     かげのない方だったわ。
太田治子 自分の生き方に悔いはないわけですね。貧乏して肉体労働してシワもいっぱい
     増えたげれど、精神的なシワはない人だと思うんですね。

(中略)

太田治子 母は文学少女で、自分も『斜陽』のお手伝いをした、書く時点では日記も提供し、
     秘書であったという感じなのね。
     私はそれに一時すごく反発したんですけど、あなたはあの小説の中から生まれた子
     なのよ、だから”斜陽の子”。と言われてもいいじゃない、そのとおりなんだから
     −−−が母なんですね。ただ、そんなのんきな人でも、心から奥様には申しわけ
     ないといまも言い続けてますし、それを聞くと切ないですね。重いです。


【言いだしかねて−太田治子対談集−より】


対談集の中の、澤地久枝との対談「誰かがあなたの心をノックしたら・・・」で太田治子(娘)さんの見解であるにせよ、太田静子さんが「『斜陽』のお手伝いをした、書く時点
では日記も提供し、秘書であったという感じ」と発言されています。実際、太宰治からの手紙で、そのようなスタンスで言い寄られていたことが残っています。

ご本人も、もちろん秘書のような気持ちで日記を提供したのでしょうに、
太宰治が亡くなった直後は、日記の提供さえも疑われたというので
すから、周辺の人々が混乱していたことがうかがえます。

posted by ピアノ at 20:55| Comment(0) | 太田静子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奥様に申しわけない

太田治子 そこが落合さんとちょっと違うと思うんですけど、母は非常に明るくて
     こだわりのない性格なのに、三十年たったいまでもはっきり奥様に申しわけ
     ないって言い続けている重さというのは、どうしようもなくあるんですね。
     母は私一人で娘を育てて生きていきますと、宣言して、親戚からも勘当同然
     になっていました。でも結局女一人で生きていくのはたいへんで、大病に
     なったり、居候せざるを得ない状況になったんです。ようやく身体が丈夫に
     なると、こんどは子連れでは働こうにも思わしい仕事がない。なんとか食堂
     の調理の仕事をするようになりました。四十になって初めて肉体労働して
     泣いている母を見ると、小学生の私は、いたたまれたかった。女一人で子供
     を育てるのはたいへんなことだたと、実感としてわかるんです。

【言いだしかねて−太田治子対談集−より】


対談集の中の、落合恵子との対談「自由に自分を生きる」で太田静子さんが30年
過ぎた後も「はっきり奥様に申しわけない」と言い続けていることが発言されて
います。

外向きの発言だと見る向きもあるでしょうが、筆者が太田治子さんの書籍を読んだ
なかに、太田静子さんが本妻との立場において、筋を通した考え方を示している
エピソードがたくさんあります。太宰治に詳しい方(一般大衆と違い)の多くが、
太田静子さんがお気の毒だったと感じていると思います。しかし、太田静子さん
ご本人は、もっと割り切った感じで充足感を感じておられたのだと思います。

ただ、経済的に報われなかった点は、筆者がもっとも釈然としないところで、
太宰治が亡くなった直後に、太田静子さんとの関係をわずかな金銭で仕切って
しまった井伏鱒二などの行いは非常に残念です。太宰治の書籍が本格的に売れ
始めたのが、亡くなった後だったことを差し引いても、もう一度仕切り直せたの
では?、仕切りなおして欲しかった、とつくづく感じます。1993年までご存命
だった井伏鱒二さんは、昭和42年(1967年)に太田治子さんが出版された『手記』
をご覧になってどのようにお感じだったのでしょう。

ちなみに井伏鱒二さんは、その前年(昭和41年)に文化勲章を受けられています。


posted by ピアノ at 20:24| Comment(0) | 太田静子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

太田静子の本籍地

五木寛之 太田さんには言葉の詑りはないようですね。
太田治子 いえいえ。そもそも私は本籍が大分なんです。
五木寛之 ということは、お母様が大分のご出身なんですか?
太田治子 はい。血は大分ですけれども、育ちが滋賀県の琵琶湖のほとりなんです。
     で、私は神奈川県生まれで、東京育ちですよね。にもかかわらず、時として
     ひよいとやっぱり関西のアクセントが出たりします。例えば、「実は・・・」
     っていうとこを、「つは・・・」って言ったりして。そういうところは、
     やっぱり母の影響というものがあるようです。

(中略)

五木寛之 なるほど。そうですか。お母様は大分の方ですか。
太田治子 ええ、本籍が。だから、母は九州の女性で。
五木寛之 じゃ、太田さんの体質の中には、お父さんである太宰治の津軽のほうのものと、
     お母さんの九州のほうのものとがあるわけですね。
太田治子 そうなんですよ。(笑)


【言いだしかねて−太田治子対談集−より】


対談集の中の、五木寛之との対談「九州の血が流れるシャイな作家」で
太田静子さんの本籍地が大分であることが発言されています。



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言いだしかねて −太田治子対談集−

言いだしかねて −太田治子対談集− 父、太宰治そして 愛、家庭を語る

昭和57年8月13日 第一刷発行

ISBN :

定価 :1,200円

発行者:株式会社主婦の友社

著者 :太田 治子(おおた はるこ)

備考 :2006年時点で、新刊本の入手は不可能のようです。

    太田治子さんが灰谷健次郎、角川春樹、五木寛之、落合恵子、瀬戸内寂聴
    など16人と対談している。太田静子さんの情報は比較的少ない。



太田静子







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2006年03月09日

ホウキと踊る太田静子

隣の西久保家には、当時、お米に換えた静子の文机や、小さな戸棚がつい先ごろまで残されていたそうである。この家の建築に携わった豊吉青年の長男で、その頃はまだ幼児だった、現ご当主の記憶にある太田静子は、天真欄漫な瞳の大きいお姉さんで、大きな声で歌を唱い、箒と踊りながら座敷の掃除をしていた姿が印象に残っているという。

昭和二十三年六月十三日、燃焼し尽くしてグッド・バイした太宰の魂はいつまでもいつまでも人々の心を虜にしている。斜陽族という流行語を生むほど、戦後のそれこそ彷徨している民衆の心の中に割り込み、その後もずっとベストセラーを統けている小説『斜陽』とともに、この家も「斜陽の家」としての歴史を担う役割を受け持つことになってしまった。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】



太田静子について、「天真欄漫な瞳の大きいお姉さんで、大きな声で歌を唱い、箒(ほうき)と踊りながら座敷の掃除をしていた」という記憶が残されているのを読んで、戦後の時代の「太宰治の愛人・太田静子」と、かけ離れた印象を持たれた方も多いのではないでしょうか?。

歳を重ね、老齢に達するまでの太田静子さんも、若い頃と同様に明るい方だったようです。明るく、気丈でいさぎよい雰囲気が、筆者の太田静子さんの印象です。老齢の頃の写真を拝見するのが願いですが、未だ叶えられておりません。



ラベル:太田静子
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「斜陽の家」となる

さて、この大雄山荘が「斜陽の家」となるきっかけは、昭和十八年初冬、前出の大和田氏の計らいで太田静子母娘がこの家に住むようになったことである。
以前から静子は太宰治の「虚構の彷徨」に強く引かれて、この作者を人生の師と仰ぐことを決めていた。次第に尊敬は恋に変じていた。静子がまだ西片町に住んでいた頃に、太宰と幾度か会って自分の作品を見て貰ったりしていたが、太宰から、「あなたは日記をていねいにお書き
なさい」と言われたので、下曽我に住み始めてから一生懸命書いていた。
昭和二十一年九月、津軽へ疎開している太宰に手紙を出し、太宰は一年半の津軽疎開から妻子とともに十一月、三鷹の自宅へ帰った。その後、静子は日記ができた事、こちらの空気が澄んで美しい事などを書いてたぴたび下曽我への来訪の誘いの手紙を出した。
昭和二十二年二月二十一日、太宰は下曽我駅に降り立ち、満開の梅の大雄山荘に滞在したのだった。その満開の梅は、「二月には梅が咲き、この部落全体が梅の花で埋まった。一中略一朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息が出るほど美しかった」と『斜陽』に書き込まれたが、大雄山荘の仔まいは太宰が考えていた『斜陽』の雰囲気にぴったりな舞台であった。

太宰は静子の日記を持って冊巾英光が疎開していた伊豆の三津浜へ行き、安田屋旅館に止宿して三月上句まで掛かって一、二章を書き終え、六月に完成させた。
その年の十一月十二日に静子は女の児、治子を生んだ。
太田静子の手記によれば、
「二、三日の予定がのびて、五日目の朝、支那間の机の上に原稿用紙をひろげて、

  斜陽 太宰治

それだけお書きになって伊豆へ立たれる事になりました」とあり一『斜陽』の中の家の描写は、住んでいた静子の日記が基になっているため、この家のすべてが小説の舞台となっている。半世紀経った今でもまったく当時のままで残されているので、小説の中にたたずんでいるような気がしてくる。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】

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高浜虚子

完成した大雄山荘へは、あの只中にあった時の足繁く出向いた情熱は薄れて、自分はほとんど使わず、感銘の共有できる人にだけ使って貰うことを喜んでいた。
昭和十二年二月七日に上の畑楠窓の肝煎(きもいり)で、高浜虚子が武蔵野探勝の句会をこの家で催した折には、白分の長女・都に振り袖を着せて客の接待を命じている。また、その文中にある木瓜酒とあるのは加来家で造ったシドミの果実酒のことであったそうである。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


加来金升氏が大雄山荘の使用を許した人々が、高浜虚子をはじめとする文化人などであったことを窺わせる。



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太田静子の部屋

「加来家下曽我別荘庭園設計図」では、運動場と記されている所に深い本格的な池を造り、その横の水泳池と書かれた部分を浅い子供の水遊ぴ場として造っているのだが、風景としては池の渚を思わせる浅瀬となっている。彼の収集した骨董の宝庫となり、さらに後に太田静子が一、二年住んだ池の端の庵は、設計図では子供部屋となっている。しかし、これも六月十八日から八月三十一日までかかって職人親子が葺いた茅葺き屋根のお堂となって仕上がっているのである。重厚な木彫りの飾りが付いしとみた板戸を母屋と同じ屠風畳みの扉にし、腰高の窓には蔀(しとみ)が付けてあってとても子供部屋というような軽やかなものではない。

(中略)

日記の中で建前をしている茅葺き屋根の庵があったが、我が家が住み始めた時にはもうな
かった。朽ちてしまったものと思っていたが、これは解体して本宅に持って行ったのだと最近
聞いた。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


日記とは、大雄山荘の向いの西久保さんの長男・豊吉さんという青年が克明につけた日記のこと。庵の移動時期は不明だが、静子さんが母親と暮らし始めた頃に庵を使用していたものと思われる。




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平成4年春頃

もうどうにも追い詰められた父の老いの深刻さは、去年一年間、私の全身を霞網のように覆っ
ておりましたが、その上に、この家を取り壊す話が降って湧いたように突然起こったのです。
去年の春ごろは、直しても直しても浸み込む雨漏りで、この家が自滅してしまうかもしれない
と、不安でたまらなかったのに、今度は壊されてしまうかもしれないという不安が募って、家
の中の柱を撫でて歩きながら、「頑張るのよ。絶対に壊されないように頑張るのよ」
と話しかけて不安感を紛らせておりました。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


最後の住人、林和代さんが上記著書の中の「太宰治様へ一筆」で述べられています。
posted by ピアノ at 22:02| Comment(0) | 大雄山荘 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『斜陽の家』雄山荘物語 

『斜陽の家』雄山荘物語 別荘を彩った太宰治、高浜虚子たち

1994年6月9日 初版印刷
1994年6月15日 初版発行

ISBN :ISBN4-8083-0487-2 C0095

定価 :1,500円

発行者:東京新聞出版局

著者 :林 和代(はやし かずよ)
    1937年旧満州(中国東北部)
    ハルビン生まれ。
    現在、アトリエ柳 主宰。
    東京都中央区在住。

備考 :2006年時点で、新刊本の入手は不可能のようです。



大雄山荘




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2006年3月の大雄山荘

無くなっているものと、信じ込んでいた大雄山荘が残されていました。

2006年3月時点ではお屋敷も門扉も残っています。「門を壊さないで」と
書かれた札が汚れてしまっていて、「なんとかしたい」と考えましたが、
もう一度3時間かけて行こうかどうか迷っています。
(勝手に架け替えて良いものだろうか?)


大雄山荘

大雄山荘



門の中には入れません。お屋敷は昭和5年に建てられたそうですが、
思ったより綺麗に保存されているようです。最後の住人、林和代さんが
平成5年の年末までお住まいだったようですが、その頃でさえも雨漏り
の修理が大変だったそうなので、なんとか早く手を入れないと物理的な
問題で解体に向かってしまうのでは?、と心配です。


大雄山荘


大雄山荘に限らず、失われそうで存在している昭和の建造物が筆者には
とてもいとおしいです。そのなかでも大雄山荘には太宰治や高浜虚子
などの由縁があり、存続するチャンスがたくさん残されています。

また、中期の住人である太田静子さんが「太宰治の愛人」などと偏って
認識されていることを払拭することで、大雄山荘の文化的・歴史的価値
が高まることも期待しいます。

なんとかして、いつまでも残されるようにインターネットを通して活動
していきたいと感じでいます。




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インターネット公開を禁止したい場合

このブログは文学的に価値のある情報、既に廃刊になっている書籍の
内容などを、モラルを逸脱しない程度に引用させていただいております。

卒論を書かれている学生の方などにも、利用していただけるかと存じ
ます。ただ、他のHPで当方の内容をコピーして公開される場合もあるか
と思いますので、著作権者の方々への影響は計り知れません。

表示の差し止めをお考えの著作権者様におかれましては、ご連絡いただき
次第、表示を中止させていただきます。手続きは、表示したくない記事の
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大雄山荘(雄山荘)の成り立ち

梅祭りでにぎわう小田原・下曽我にあるこの家は、今では太宰治の名作『斜陽』の家として
世に知られている。どんなにそれが近代建築として価値があるといわれる家であっても、
太宰治が『斜陽』の題材に使わなかったら、たぷんこれほど注目されることもなかったで
あろうし、取り壊される寸前に、九死に一生の命拾いができたとはとても思われない。
大正十四年九月十四日、加来金升(かくきんしょう)氏が神奈川児足柄下郡下曽我村
曽我谷津大木(おおき)の元という地番に六百壱坪の土地を借地することから、この家の
歴史は始まる。大木(たいぼく)の根元の土地とはなんと素敵なことだろう。

加来金升は、明治十八年大分県に生まれ、父政太郎は恵良(えら)家より養子に入り、
母サダは中津の恩田家より嫁している。素封家で、「政太郎さんはカンガルーの靴しか
履かないし、サダさんは、ハトの肉しか食べないそうな」と噂されたという話が残っているように、カンガルーの皮のように軽くてやわらかな靴しか履かず、ハトの肉のようなやわらかな肉しか食べないとの例え話で、その優雅な生活が想像できる。福沢諭吉と同世代の文明開化
に啓蒙された見本のような、大分の一族であったようだ。

妻皓(こう)の父は海軍軍人であったし、妹の夫や親戚には貴族院議員で男爵の爵位を持つ
人あり、海軍軍人あり、郵船全社社長あリ、変わったところではセレベス島で果樹園を成功
させた人もいるが、この人の親は親戚の上の畑家から養子に入っており、上の畑家の人々と
この家の歴史とは深いつながりがある。後にこの家の運命の鍵となる太田静子が住む橋渡し
をした静子の母の弟(『斜陽』の文中で和田の叔父様として登場する人)は、上の畑家から
大和田家に養子に行き、逓信次官や会社社長をした人である。

(中略)

大正十四年は加来金升氏が四十歳になった年で、心身ともに旺盛な時期であり、この頃の彼
はハーレー・ダビッドソンに跨って華々しく人生を駆け巡っていた。大分の彼の母校である東
院内の小学校に講堂を寄付し、奨学金制度を作ったりしたので校庭に胸像があったそうだが、
昭和の初期の事なので現在はどうなっているのかわからない。
出版関係の友人で下曽我出身の佐宗恵輔氏から「親戚の土地で、富士山の絶景や気候風土の温
暖な別荘地として最適な土地が空いている」という話を聞いたのがきっかけとなり、これまでの
建築家志望の夢を実現させる決心をした。母の余命の短さを知って衝撃を受けた時期でもあ
り、母のためにもと、この地に別荘を建てる決心を固めたのであった。

(中略)

父政太郎はすでに亡かったが、母は病床に臥し、余命を医師に宣告されている状態だった。
何とか母にこの風光の美しい別荘で安穏な時間を持ってもらいたいと望んだのだが、残念なこ
とに母に楽しんでもらうことは叶わなかった。
ともかく、写真なりと見て貰いたいと、家の完成とともに撮影したものを、無念の思いを秘
めて小冊子にまとめた。B6判ほどの小さなもので、落ち着きのある茶色の表紙に緑のリボン
で綴じられており、「大雄山荘」と加来氏の墨跡で印してある。


【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】




加来金升氏の母の「親戚には貴族院議員で男爵の爵位を持つ人あり」と、資産家であり名家であることが窺えます。小冊子の内容については、小学館文庫の「斜陽日記」に詳しい説明があるので、ご存知の方も多いと思います。(小学館文庫の「斜陽日記」は、480円で現在でも書店で手に入ります。)



posted by ピアノ at 10:12| Comment(0) | 大雄山荘 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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