2009年04月29日

井伏さんは悪人です

井伏さんは悪人です・・・と太宰さんが遺書に残した
ことは有名です。猪瀬直樹さんの「ピカレスク
太宰治伝」は、その言葉の真意に焦点を当てており、
実証的で非常に面白い作品です。

安藤宏「明かされた太宰メモ」を今回、はじめて
読んで、『如是我聞』を執筆している頃の太宰が
精神的に混乱していたことが確認できました。

このメモの文章は、世話になった井伏さんに対して
は少し言い過ぎのような気もします。しかし、井伏さんが
盗作に近いもので評価されてしまったことを、一時は
後ろめたいことと思っていたはずなのに、晩年になって
開高健に対しての「良心をなくしたらいい」と発言した
ことを知ると、その批判もなかなか的を射ているな・・
と納得。

老年の井伏鱒二の開き直りにも取れて、ちょっと
あきれてしまいました。



以下は引用です。

『如是我聞』は太宰治最晩年のエッセーで、志賀直哉に激しく攻撃を加えているさなかに太宰が命を絶ったこともあって大きな反響を呼んだ作品である。今回の資料でもっとも話題になると思われるのは師匠の井伏鱒二を激しく攻撃している部分が、その下書きに見える点だろう。少々長くなるが関連部分をピックアップしておきたい。

【井伏鱒二 ヤメロ といふ 足をひっぱるという。『家庭の幸福』ひとのうしろで、どさくさまぎれにポイントをかせいでいる。卑怯、なぜ、やめろというのか。『愛?』私は、そいつにだまされて来たのだ。人間は人間を愛することは出来ぬ。利用するだけ。思えば、井伏さんという人は、人におんぶされてばかり生きて来た。孤独のようでいて、この人ほど『仲間』がいないと生きておれないひとはいない。井伏の悪口を言うひとは無い。バケモノだ。阿吊みたいな顔をして、作品をごまかし(手を抜いて)誰にも憎まれず、人の陰口はついても、めんと向かってはなにもいわず、わせだをのろいながらわせだをほめ、愛核心、ケッペキもくそもありゃしない。最もいやしい政治家である。ちゃんとしろ。(すぐ人に向ってグチを言う。いやしいと思ったら黙って、つらい仕事をはじめよ)。私はお前を捨てる。お前たちは、強い。(他のくだらぬものをほめたり)どだい私の文学がわからぬ。わがものみたいに見えるだけだろう。聖書は屁のようなものだという。実生活の駈引きだけで生きている。イヤシイ、私は、お前たちに負けるかも知れぬ。しかし、私は、ひとりだ。<仲間>を作る。太宰は気違いになったか、などという仲間を。ヤキモチ焼き。悪人、イヤな事を言うようだが、あなたは、私に、世話をしたようにおっしゃっているようだけど、正確に話しましょう。かつて、私は、あなたに気にいられるように行動したが、少しもうれしくなかった。】

何とも衝撃的な言葉の数々である。太宰の遺書に『井伏さんは悪人です』という一筆のあったことが従来から語り伝えられ、これまでさまざまな憶測を呼んできたが、今後この問題を正面から考える際の重要な手がかりになるのではないか。(安藤宏「明かされた太宰メモ」?「東奥日報」平成13・10・15)
http://kyotaro.web.infoseek.co.jp/tenbo/02cur01.html より引用させていただきました)



『井伏鱒二の世界』(NHKTV)で開高健が「書く気が起こらない、そうしたとき、どうしたいいのか」と井伏に教えを乞うた。井伏は「それは自重するからでしょう。良心があるから、良心をなくしたらいい」と答えていたのがとても印象的であった。NHKでは井伏の代表作として『山椒魚』と『黒い雨』を挙げていたが、この両作品とも最も非良心的として物議をかもした作品である。だが、これに対し太宰治は、井伏とは反対に最も良心的な作家ではなかったか。
石塚氏が述べているように、太宰と井伏とでは性格的に“水と油”であったろう。従来の“伝説太宰治論”では井伏鱒二は“太宰治の大恩人”ということで、文壇と国文学界では五十余年も通してきた。が実際にはその反対であったが、井伏と親しかった太宰の長兄・津島文治はどうだったであろうか。
http://kyotaro.web.infoseek.co.jp/tenbo/02cur03.html より引用させていただきました)


ラベル:井伏 鱒二
posted by ピアノ at 21:37| Comment(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月25日

長篠康一郎さん

山崎富栄をネット上で追っていると、太宰治研究者として
知られる長篠康一郎さんのページ「DAZAI OSAMU鏡太郎ほめぱげ文庫」
が消えていることに気がついた。数年前にお亡くなりになった
ので、いつか消えてしまうのでは・・・と危惧していたが、
やはり無くなるようだ。生前に、収集した資料は神奈川近代文学館
に寄贈されていたらしいが、その情報も消えかけているので、
googleのキャッシュから拾って、下記に貼り付けておくことにする。

※鏡太郎ほめぱげ文庫は全てのページを当方でダウンロード済み

貴重な情報が満載だったので、復活を願うばかりです。


 長篠康一郎さんから蒐集した太宰治関係の資料を神奈川近代文学館に一括して寄贈したという話しを聞いたのは、何年前だろう。大分前のように思うが四年くらい前のことかもしれない。用事があって電話をかけると、神奈川近代文学館に保存してもらうことにしましたとポツリと漏らした。蒐集した資料の保存と散逸に悩み、そう決めたようだった。詳しい事は尋ねなかったが、その気持ちがわかるような気がした。蒐集した資料はある分量に達すると、個人所蔵のものであっても、公共性のようなものがつきまとう。散逸と破損を恐れるのは、当然のことだ。だが、その反面で資料を手放したことを幾分が寂しがっているふうにも思われた。太宰研究に生涯をかけた長篠さんにとって、資料は自分の分身のようなものだ。それは無理ないことだと思った。それから今日まで、私はこのことを忘れていた。
 長篠康一郎収拾太宰治文庫を閲覧する機会を与えられ、閉館間近い神奈川近代文学館を訪れたのは、十一月二十五日。忙しい最中だった。資料一覧と手紙その他の資料を閲覧したが、そこには太宰治に関する基本図書のほとんどが架蔵されていた。初版本が八十六冊。昭和十九年から二十三年にかけて発行された「展望」「人間」などの初出し雑誌と関連雑誌がこのほかに架蔵されているが、分量の上では各種の太宰治全集と作品集、それに膨大な量の研究書、研究雑誌が収められている。今日では入手困難な岸金剛の「太宰治の作品とそのモデル」、益子道江の私家版「太宰治」をはじめとする研究書、山内祥史の私家版限定雑誌「太宰治」、太宰論を掲載した「文学往来」、「西幡文学」などの同人雑誌などが整然と並んでいる。長篠さんの研究生活のすべてがここに治められている。私はそれに畏怖した。
 そして、この文庫に架蔵されている書籍と雑誌に刻まれている遥かな歴史を考えていた。資料検索と研究は膨大な時間と気の遠くなるような歩みのなかでおこなわれる。それは目に見えない。そういう悠久の歴史をもっているが、この文庫の白眉は、基本文献が揃っているだけでなく、太宰治が最初に結婚した小山初代に関する原資料と、太宰とともに死亡した山崎富栄関係の原資料があることだろう。
 小山初代関係の資料は全部で八点。もっとも古い資料は、昭和五年十一月二十四日に津島家から小山家に届けられた金五百円の結納の「覚」であるが、この日に起稿し、昭和六年一月十一日に?筆した「長女初代結婚記事」もある。太宰治の伝記資料としては第一等のものであるが、さらに昭和六年一月二十七日に兄津島文治と津島修治との間で交わされた、小山初代との結婚同居を続けるかぎり毎月百二十円を支給するという金銭援助の「覚」、昭和八年九月十八日から十二月十七日までの通学定期券、全集では年月日が不祥とされている小山きみ宛のハガキその他がある。展覧会や図録などでみたことはあるが、手にとってみると、生々しい感触がある。
 山崎富栄関係の資料は全部で十点。その内容は山崎富栄日記の写真版、大正十五年三月十九日付けの富栄の幼稚園終了の「保育証」、小学校の「卒業証書」と「優等証書」、太宰治の富栄宛のメモ、それに友人宛のハガキ五通などであるが、太宰の富栄宛メモに心惹かれた。「煙草と何かオカヅ(たとへば、カキなど)を買って、あなた自身とどけてください、寒いのに気の毒だけど、右おねがい」という日常的なメモであるが、太宰治の晩年の心象風景がそこに刻印されているような気がした。
(目白学園女子短期大学講師)

http://www.intacc.ne.jp/HP/sonata32/sirayuriki/nk/nk-kkb.html

ラベル:長篠康一郎
posted by ピアノ at 22:54| Comment(4) | あくまでも憶測 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月23日

太宰治の兄『圭治』

太宰の兄、津島圭治さんが、太宰よりも先に東京に
住んでいたようで、その兄が友人の作家に頼んで
工作したことが文壇デビューを実現したひとつの要素
だった可能性があるようです。

「圭治(五男)も太宰治の上京後間もなく病死」
http://www.ka.shibaura-it.ac.jp/kokugo/dazai04/b/03/index.html

しかし、上記のサイトに詳しいように、このお兄さんは
若くして亡くなったようです。この方が生きて
おられたら、太宰のその後の環境が変わることで、
太宰が残した作品も違った内容になったように
思えます。太田静子さんとの出会いも、
無かったのかも知れませんね。


太宰デビュー手助けfine.jpg

【中央文壇意識し著名作家名簿入手 太宰あてのはがき公表】
 中泊町小泊の小泊の歴史を語る会の柳沢良知会長(70)は20日、作家太宰治の旧制弘前高校時代の中央文壇デビューへの熱意を裏付ける資料として、太宰あてに送られたはがきを公表した。はがきには、当時太宰が主宰した同人雑誌を著名作家に寄贈するための名簿が記されている。
 はがきは8年前、当時、小説「津軽」の像記念館館長だった柳沢さんに持ち込まれた。あて先が「弘前市富田新町五七藤田様方 津島修治様 太田」となっている往復はがきの往信。「寄ソウ名ボを送ります」(原文)と始まり、佐藤春夫や谷崎潤一郎ら約50人の作家の名前や住所が記され「この中からとればいいでせう」(原文)と書かれている。
 柳沢さんが内容確認を依頼した太宰研究家で、岐阜女子大学名誉教授の相馬正一さん(80)=長野県在住=によると、送られた時期は太宰が同人雑誌「細胞文芸」を創刊した旧制弘高2年(昭和3年)5月以前とされ、差出人は当時東京にいた太宰の兄圭治さんの友人で、ともに同人雑誌「十字街」に加わっていた太田誥一さんだという。
 相馬さんによると、作家デビューを意識した太宰は圭治さんを通し「細胞文芸」に、中央の作家に有料で原稿を依頼するなど積極的に活動。今回公表されたはがきは同誌を著名人に寄贈するため、圭治さんに名簿を依頼し、圭治さんに代わって太田さんがはがきを出したものと思われるとしている。
 相馬さんは「当時、太宰が中央文壇を意識し自分を売り込もうとしたことは知られているが、それを裏付ける資料だ」と評価した。
 はがきは21日から、小説「津軽」の像記念館で一般公開される。柳沢さんは「意義あるものでびっくりした。太宰が有名になるまでの過程として知ってもらえれば幸い」と話した。

太宰デビュー手助け.jpg
posted by ピアノ at 09:04| Comment(0) | 津島 圭治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月16日

太宰17歳の写真

K大学!の文学部国文学科でいっしょだったK君が
スクラップをメールで送ってくれました。K君、貴重な
情報をいつもありがとうございます。
太宰17歳
太宰治の17才『柔和な丸刈り』



太宰17歳
記事詳細


太田治子さんの写真がお父さんの若い頃にそっくり!
ここをクリックして比べてみてくださいね。

posted by ピアノ at 18:27| Comment(1) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
記事検索
 
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。