2009年09月12日

相馬正一さん『太宰治の原点』


こちらの書籍が発売されていることを
知ったばかりで、内容については知りません。
目次に「斜陽」と太田静子の日記・・・という
記載がありますので、いつか読んでみたいと
思います。それにしても、発売されて3ヶ月
しか経過していないのに、amazonには既に
4冊の中古商品が並んでいます。

読んでいないので、内容についてはわかり
ませんが、太宰に関連する書籍がコンスタントに
売れていることを表しているのでは無いで
しょうか?。

『太宰治の原点』相馬 正一/著
出版社名 審美社
出版年月 2009年6月
ISBNコード 978-4-7883-4125-8
(4-7883-4125-5)
税込価格 2,940円
頁数・縦 273P 20cm
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032273037&Action_id=121&Sza_id=C0



この相馬正一さんが朝日新聞の青森版から取材を
受けて記事になった「青森ひと山脈 」というのが
あります。

その中の第4回に「太宰夫人と面会できず」という
大見出しの記事があります。昭和41年のことですから、
太宰の亡くなった昭和23年から20年近くが
経過しています。治子さんは18歳。津島美知子
さんが54歳の時のことです。

回顧展のいきさつを、あらためて読んでみると、
美知子夫人の太宰への思い入れが感じられて、
治子さんの「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」
がもしも、美知子夫人の生前に発刊されていたら、
心中穏やかで無かっただろうと思います。




「斜陽」のモデル太田静子さんの娘治子さんの津軽訪問が波紋 2005年09月17日

 ――研究者として知られるようになるにつれ、津軽を訪れる太宰の関係者を案内することも多くなる。

 「斜陽」のモデルとなった太田静子さんから、「一度でいいから娘に父親の故郷である津軽を見せたい」と頼まれました。太宰は静子さんとの間に娘をもうけていました。それが治子さんです。

 その時は、僕の方もあまり余裕がなかったので、そのままになっていました。そしたら、しばらくして奥野健男さんから連絡があり、出版社が治子さんの津軽紀行を出す企画があるので、案内してくれないかというんですよ。

 昭和41年(1966年)の夏、治子さんはまだ18歳で、「婦人公論」の記者と奥野さんが東京から同行してきました。

 小泊村(現中泊町)の越野タケさんにも会いに行きました。太宰が小さいときに子守をした人で、「津軽」に再会の場面が登場します。

 タケさん、治子さんを見て喜んでね。「おー、孫が来た、孫が来た」って。太宰を自分の子どものように思っていましたから、治子さんは孫のように思えたのでしょう。

 予定のところを回って、最後に東京に帰るときになって、津島家と太宰の間をとりもっていた五所川原の中畑慶吉さんが「治子さんを津島文治さんに会わせたい」というのです。

 文治さんは太宰の長兄で、当時は参院議員をしていました。心中未遂事件などでたびたび世間を騒がした太宰を勘当した人で、本当に治子さんに会ってくれるのか心配でした。

 みんなでタクシーに乗って青森に行き、恐る恐る文治さんの家に行ったら、ちょうど東京から戻ったばかりの文治さんが奥から出てきて、治子さんをジロリと見おろすのです。そして口から出たのが、「む、津島の顔だ。入りたまえ」という言葉でした。

 それから、治子さんと私たちも一緒に座敷に通され、その夜は文治さんの奥さんのれい夫人の手料理で大変な歓待を受けました。そのときは、文治さんはすでに太宰を許してたんですね。

 ――太田治子の津軽訪問は、後にちょっとした波紋を呼ぶことになる。

 間もなく、治子さんは雑誌に発表した津軽紀行で、このときの様子を書きました。その中で「弘前高校のS先生」と出てくるのが僕のことです。

 ところが、その後、太宰夫人の美知子さんを訪ねようとしたら、「差し障りがありますから」と断られてしまった。それまで、何度も太宰の話を聞かせてもらったり、資料を見せてもらったりしていたんですよ。

 後で、奥野さんに話したら、「いやー、僕もだよ」と言ってましたね。美知子さんにしてみれば、治子さんと文治さんの面会は、相馬と奥野が余計なことをしてくれたということだったのでしょう。

 それ以来、美知子さんが亡くなるまで一度も会うことができませんでした。

 もっとも、美知子さんとはその後も手紙ではいろいろとやりとりをしていましたから、まったく関係を断たれたということではありません。

 太宰が亡くなって没後20年に回顧展が開かれて以来、10年ごとに回顧展が開かれていました。本来であれば没後50年が一つの節目でしたが、美知子さんが47年目にやってほしいというのです。まだ50年にならないのにと戸惑いながら、僕も編集委員として、美知子さんと手紙で打ち合わせをしながら、95年に青森市の県近代文学館で「太宰治展」を開催しました。

 美知子さんが85歳で亡くなられたのは、それから2年後でした。自分が生きているうちに、もう一度太宰の回顧展をという思いがどこかにあったのかも知れません。





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2009年09月11日

町田で太田治子さんの講座

東京の町田市、といってもどちらかというと神奈川
に近い感じもしますが・・・。

太田治子さんが、ご両親のことを語ってくれる
講座があるようです。まだ、定員に満たされて
おりませんが、早い者勝ちではないでしょうか?。

本当なら、ぜひ参加させていただきたいの
ですが・・・。こういうの、オンラインセミナー
になれば良いのに、と、いつも思います。


NHK文化センター町田教室:
父太宰治と母太田静子の愛のかたち
(作家 太田治子)
好奇心の、その先へ NHKカルチャー

http://www.nhk-cul.co.jp/nhkcc-webapp/web/WKozaKensaku.do?baseScreen=nhkccTop
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_518686.html

作家太宰治の生誕100年。娘の太田治子が新著『明るい方へ』を通して問いかけます。『斜陽』は太宰治と太田静子の共同作品であると・・・。

教室名:町田教室
講師名:作家 太田治子
開催日:10/22
曜日・日時:指定木曜 15:30〜17:00
一般:2,940円

posted by ピアノ at 19:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 太田治子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月10日

太宰の遺書から伏せられた一文

ちょっと、太宰批判がエスカレートしてしまって、
ブログの趣旨を逸脱してしまっているようにも
思えますが、ネット上にあまりにも情報が少ないので
憶測に終始しないように注意しながら書かせて
いただくことにしました。


一般に、太宰治から妻の美智子にあてられた遺書は
以下のものとされています。(抜粋)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「美知様 誰よりもお前を愛していました」

「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、
堪忍して下されたく」

「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。
あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。
小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい
欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2番目の「長居するだけ・・・」の前に「太田という女あり、
なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の
上にも病気の上でも世話になりたり、」
という部分が
あったことは、どこかで記憶していたのですが、
ネット上にはほとんど見あたりませんでした。
唯一、「太宰府 山崎富栄と太田静子」というブログ
に東奥日報の記事として引用されています。(こちらの
ブログは大変勉強になります。)

昔、大学の図書館にあったようなマイナーな研究書
(文学界とか国文学とか)には引用されていたように記憶して
います。唐突で、「なんのことだろう?」と心にひっかかって
いた記憶が残っています。当時は、太宰の(小説以外の)
背景などは知らなかったので・・・。


太田治子さんが、新刊書で、ところどころで言及されて
いますが、「セイカツノコト シンパイスルナ」とか
「あなたひとりの生活のことなど、どうにでもなりますよ。
安心していらっしゃい。」と交際前に太宰が静子さんに
手紙を書いていることと、この遺書の非公開の部分
とは整合性がつかないと思います。子供が生まれて
2人になったら反故にできるのか?むしろ逆でなければ
敵前逃亡のそしりを受けることは免れません。

太宰が妻に対して、「太田という女が金の無心に来るかも
知れないが、相手にするな」と明示的に書き残すと
いうのは、どう考えても理解しがたい。友人に「子ばやい
女で困った」とか、「深入りした女がいて死にたいくらい」
とかグチをこぼすのは、多少くだらないが、しかたない
としても・・・。

また、静子さんへの遺書が無く(これは斜陽が遺書の
変わりとして太宰の中では完結しているのかも知れないが)
山崎富栄から太田静子に手紙をださせていることも
見逃せない行動です。この手紙の内容を太宰は知らなかった
かも知れませんが、少なくとも手紙を送った事実は把握
しているように思えます。しかし、内容から見て、
太宰がこの山崎富栄の手紙の内容を見たとは思えない。
太宰に見られることを想定して富栄が書いている風には
思えないことから、おそらく「太田さんには私が手紙を
書いておきましたからね!。その方が奥様にも娘さん達
にも良いでしょ。」「ああそうだね」と、太宰が「一筆
残す」と言い出す前に、一件落着にされてしまったように
感じます。

※連絡係に徹していたストレスをここぞとばかりに
 発散する。「わたしも」では無くて、「わたしは
 太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。」と、
 一方的に勝利宣言して手紙を送りつけた、山崎富栄
 の下品な攻撃を静子さんは本当にスルーできていた
 のでしょうか?。この手紙はあまりにもヒドイ。

憶測の域を出ませんが、死の直前の太宰は、隣にいる
山崎富栄を過剰に気遣い、もしかしたら、遺書の内容
にも富栄のコントロールが及んでいたのではないで
しょうか?。
(検閲までは無いにせよ、書いた後で富栄に「見せろ」と
 言われることを想定しながら太宰が書いた可能性は
 十分に予想できるのではないでしょうか?。)

本妻への敬意を表明することは、山崎富栄がお行儀よく
立ち位置を選んで、そこに納まり、お供することを
詫びることによって美化している風に思えます。
太宰も静子さんと治子さんのことは逃亡したい現実。
本妻に「一番愛してる」と言い残せるような隙間を
作っておくことは、富栄がお行儀の良い側室を
演じられます。太宰と富栄の利害が一致します。

※少しずつ、印税が入っていて、一般人に比べれば
 裕福な生活が出来ていたのだろうが、大地主の息子の
 経済観念では貧窮に近い意識が太宰にあったの
 かも知れません。全集の出版を想定していたと
 思えますが、それも死後のことなので、勘定に
 入っていなかったのかも知れません。だとしたら
 「救い」は残された本妻の美智子さんが全てです。
 無くなって数年後の檀一雄の行動に折衷してくれ
 なかったことは、かえすがえすも残念です。
(文壇や出版界が、太宰の版権を握る美智子さんを
 擁護したことも静子さんには逆風になったようです。)


檀一雄が太田母娘の困窮ぶりを見兼ねて津島美知子さんに
せめて「斜陽」の印税の内少しだけでも援助してもらえないか
と頼んだが、美知子さんは立腹してその場を立ち去った
http://oota-shizuko.seesaa.net/archives/200710-1.html






以下は、参考としてリンクとともに引用させていただき
ました。

●富栄が死の当日、同じ愛人の太田静子に宛てた手紙

「太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。
わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。 太田様のことは、太宰さんも、お書きになりましたけど、
後の事は、お友達のかたが、下曽我へおいでになることと存じます。」
http://www.gulf.or.jp/~houki/geijyutu/dazaiosamu.htm




 昭和23年6月16日、太宰と富栄が心中したときの東奥日報に、興味深い記事がある。

 ザラ紙●枚に書いた一通の遺書には
「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり、長居するだけみんなを苦しめ、こちらも苦しい、かんにんして下されたく、子供は凡人にてもおしかりなされまじく・・」
 とあった

 「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり」のくだりは公開されている遺書にはない。非公開の部分であるのか、誤報であるかどうかはわからない。
(http://olga1225.blog86.fc2.com/blog-entry-8.html)



posted by ピアノ at 10:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

『明るいほうへ』という詩集があったこと

『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』を
半日で読み終えました。太田治子さんの
文章が読みやすいことが一番にあげられる
と思います。それと、母・静子さんが残した
当時の日記からしか知り得なかった数々の
情報を読んでいると、他のどの著作よりも説得力
があり、生身の太宰治を描いた著作の決定版と
言えるものだと思います。

また、太田静子さんが『斜陽のモデル』という
文言が浸透していて、私自身も疑いなくこの
ブログのタイトルに含めていましたが、
これを機会に『斜陽の原作者』と変えさせて
いただくことにしました。寺内寿太郎の
「生まれてすみません」フレーズも同様ですが、
『斜陽』成立の流れを見ていると、後から盗作と
言われてもしかたないような状況・・・
と言っては言いすぎでしょうか?。

http://ameblo.jp/kimuraayako-official/entry-10090428532.html


全編を通して、父を突き放したような、あっぱれな
記述と、この作品の最後をかざる「正直で勇気ある男」
の記述には、少しだけ妙なコントラストを感じます。
娘ならではのジレンマが感じられて、それがとても生々
しく、嘘の無い印象を追加しているようにも思えます。
(帯にも「正直で勇気ある男」が大きく書かれて
 いるのですが、太宰信奉者へのスケープゴートに
 見えてしまっているような・・・。)


さて、ちょっとブラックな事ばかりで辟易されて
しまわれると困るので、本題の『明るい方へ』に
ついてです。

この題名を聞いて、金子みすゞさんの詩集
『明るいほうへ』 を思い起こされた方がどのくらい
おられるのでしょうか?。

太田治子さんの『明るい方へ』に対して、金子みすゞ
の詩集は『明るいほうへ』ですので、少しだけ違い
ます。何の関連も無いのかも知れません。明治36年
と少し上の世代ですが、男性運が悪くて幼い娘さんを
残して命を絶った金子みすゞさんと、太田静子さんが
どこかで繋がっているように思えていたので、
私はとても驚きました。金子みすゞさんの娘さんは
母親に捨てられたような気持ちで、壮年までずっと
生きてこられたようです。太田治子さんはお母様
の太田静子さんと最後まで暮らしていけたのですが、
それは太宰が『斜陽』にメッセージを残してくれた
おかげだと思うと、かろうじて救われたような
気がします。

金子みすゞの『南京玉』を読んでみると、小さい
娘さんを残して命を絶たなければならなかった
ことは、衝動的であったり浅はかだったはずが無く、
苦悩と決意の現れだったことが理解できるように
思えます。

明治・大正・昭和の初期にかけて、理不尽な
理由で離婚させられたり病気になって、自死する
女性は現代よりもずっと多かったようです。

太田静子さんは苦労をスルーできる、底の抜けた
ような明るさを持ち合わせていたようで、
そのおかげでこのように娘さんが書く名作に出会えた
ことを感謝したい気持ちです。

posted by ピアノ at 17:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 太田静子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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