2012年01月22日

太宰治『生まれてすみません』

この1文が盗用であったことさえも
一般大衆には知られていなかったようで
(出版社が露出を抑えていた?)
2010年に読売新聞のコラムで
取り上げられていることで初めて知った
人も多いことがわかります。

以前、このブログで太田治子さんが
どのように金子みすゞさんをとらえて
いるのか知りたい...と私は書きました。
あれからしばらく経過しまして、
講演会のレビューがいくつかのブログなどで
記載していただけているようですので
引用させていただきます。

『治子さんは「生まれてすみません」の引用元に
ついても、批判的に話していた。』と発言して
いたとの記述を見つけました。

それにしても、金子みすゞや寺内寿太郎など
弱者に対して皆さん優しいので、
読んでいて安心します。

ただ、太田静子さんの実家は九州の大名の
御典医の家系、太宰治は青森県の大地主で
多額納税により貴族院議員まで登り詰めた
家系です。そういう血筋を引く太田治子さん
ならではの見解も欲しい気がします。

金子みすゞがあの時代に「みんなちがって
みんないい」と「わたしと小鳥とすずと」で
詠んだことは素晴らしいし、せちがらい世の中
になって、その詩が発掘されて日本中の
人々の心を打ったことは非常にセンセーショナル
であったと思います。

しかし、そのフレーズに甘えてしまって
働けるのに働かない人々まで生み出して
しまったこの10年の日本というものは
静子さんが苦労した時代とは別のもにに
なりつつあるようにも思えてしまいます。
これが進行しても、文学や美術を創造したり
より深く酔いしれる国になりさえすれば良いの
ですが、良いものをもともと知らない
先祖を持つ人々が国の舵を切っているのが
現状の日本です。

そのうち日本の国文学に価値を見いだせない
人々が大多数を占める国になりそうにも
思います。





読書散歩
2010年03月14日
■[dazai] 私の本について話そう『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』太田治子さん講演会
神奈川近代文学館にて、太田治子さんの著書『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』についての講演会。太宰の戦争責任や現代の政治社会についての話題も交えて、治子さんらしく、楽しい講演会になった。
『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』は、現在、第三版まで版を重ねていて、前作の筑摩書房から出版された林芙美子についての作品『石の花―林芙美子の真実』は、やっと重版されたところなので、太宰治と林芙美子という作家の温度差を感じた、と話された。『石の花』を出版した時には、神奈川近代文学館からも、講演の声はかからず・・と、笑っていた。林芙美子は太宰に好意を持っていたそうで、太宰の死後、林芙美子が下曽我まで来て、太田さん母子二人を引き取るという提案があったそうだが、静子さんは断ったという。治子さんは、「もしもそうなっていたら、私は林芙美子の娘になっていたのです」と笑った。母の手ひとつで育てられて良かったなと思う、と。
下曽我の家が焼失したことにも触れ、治子さんが3歳10ヶ月まで暮らしたその土地の風景は今も変わらず、梅の花が咲き、みかん畑があり、富士山や相模湾が眺められ、金時山の山並みの美しい、素敵なところで自分は生まれたのだなと思うとおっしゃった。
『石の花』では3年かけて林芙美子を、 『明るい方へ』では、2年かけて太宰と静子さんを、冷静客観に書ききったという自負があると、講演を通して、何度か繰り返しておられた。両親のことは、こ れまで苦しくて書けないところがあったけれども、太宰の作品を読んで感じる共感と反発のうち、共感の方が多くなったら、太宰を書けなくなるのではないかと いう思いがあったそうだ。著作を読んだ老齢の女性から、温かい手紙をもらったが、一箇所「あなたの立場なら、お父様に恨みがあるのもわかりますが」と書か れていたことに、それは違うのだ、と強く感じたという。恨みなどではなく、治子さんは「太宰の真実を書きたかった」のだと。
太宰の『虚構の彷徨』を読んだ静子さんが、太宰に手紙を送ったのが、二人の知り合うきっかけとなった。そして太宰が遊びに来ませんか、と静子 さんに返事を書き、その後太宰の方から、静子さんを呼び出す電報を送っている。治子さんは、「太宰はおそらく、女性としての太田静子だけでなく、彼女の持 つ文学の才能を見抜き、この女性はいつか使いものになるなと考えたのでしょう、まさに色と欲ですね」と分析して笑った。治子さんを産んだ後、静子さんは奥 様に申し訳ないと何度も言っていたそうだ。治子さんはしかし、それは運命だったといい、人道には背いていても、天道には背いていない、と。
治子さんは、静子さんが太宰の唯一の女弟子であると話し、『斜陽』の8割が、静子さんの日記を引用されていることについて、立場が逆であれ ば、盗作とも言われかねないことだが、静子さんは、太宰をうらむ気持ちはなく、むしろ嬉しかったという。太宰からご自分の日記を求められた時に悲しい思い をした静子さんは、ご自身を『斜陽』のモデルというよりも、『斜陽』という作品のアシスタントだったと考えていたそうだ。治子さんは「生まれてすみませ ん」の引用元についても、批判的に話していた。(この件について私は、寺山的な言葉のコラージュであり、盗用に当たらないと思っていますが)
吉本隆明さ んが太宰の全ての作品が好きだと話していることについて、治子さんは、本当ですか、と言いたくなるそうだ。太宰の差別意識やエリート意識、思い上がったと ころがあからさまに出ている文章は嫌いで、太宰作品の暗さや重さを「人を暗い気持ちにさせないでくださいと思う」といい、心安らぐ文章が好きだという。太 宰が「文豪」といわれることについて、「文豪といえば、シェークスピア、ドストエフスキー、トルストイですよねぇ。太宰ではない・・」と言い、太宰を「不良少年の作家」であり、時として胸にぐっとくる真実もある、と評した。『人間失格』の最後に「神様みたいないい子でした」という一節があるが、「あの人が神様なら、私達はみんな神様です」と言って笑っていた。
母、静子さんについて、賢くはないかもしれないけれど、まっすぐな心を持ち、最高の母親だといい、ご自分は静子さんのような人と結婚したかっ たそうだ。生前の静子さんにそう話すと、静子さんは「あなたのような人はイヤだ」と答えたという。誰しも光と影の部分があるが、治子さんは、母方の家の自 由で個人主義的な気風が好きで、ご自分は太宰よりも暢気で、人が好きでよかったと思う、と。
自己中心的で自己愛の強い太宰は、同時にそれを自己嫌悪する自己矛盾を抱えていて、自己矛盾のきわめて少ない、無邪気な自由主義者の太田静子にひかれたのだろうと分析した。「太宰治は カメレオンでした」と言い、また人を愛したいラブコールを持っていた、とも。太宰の欠点は、治子さん自身に通じるところもあり、太宰を書くことは、自分自 身の欠点を書くことにもなるが、ご自身は、あそこまで極端ではない、とおっしゃった。今、とても幸福で、自分を生んでくれた母と、生んでいいと言った父に 対して、心から感謝の気持ちがあり、生まれてきて本当によかったと心から思うと話した。
静子さんの苦労を間近で見てきたので、母親にひいきするところがあって当然、とおっしゃり、それでも、「太宰を好きなんです」「最終的には尊 敬している」と話していた。『斜陽』の最後のかず子の手紙について、「今の時代につながる、価値の多様化があるのではないか」と話し、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」の世界観を求めていきたいと講演を結んだ。
講演後のサイン会。私のことを覚えていてくださって、「この本すごく面白かったです!」とお伝えすると、付箋が沢山ついた本を見て、「まぁ!熟読してくださって・・」とおっしゃった。下曽我の家が焼けた翌日に訪れた話をしたら、治子さんは、焼けた後、まだ訪れたことがなく、「私の代わりにあなたが行ってくださって・・」と言っていらした。家の入口の石の羊が2匹、残っていたことを話した。
4月4日、ちひろ美術館にて、太田治子さんの「ちひろとみすゞ 」講演会。こちらも行きたいなぁ。
(読書散歩 http://d.hatena.ne.jp/witmiffy/20100314





2010/04/22
「生まれて、すみません」太宰治の名文は、盗作でした。

「生まれて、すみません」

太宰治の短編『二十世紀旗手』にエピグラム(警句)と
して使われている一文です。
太宰の文章のなかでも特に有名な一文であり、
同名の太宰治名言・名文集や
文字がプリントされたTシャツなども販売されています。
僕も、いわゆる思春期の頃にはよくこの一文を思い出し、
陰鬱な想いに落ち込んだり、
将来に漠々たる不安を感じていたものです。
しかし、昨日の読売新聞朝刊の囲みコラムを
読んでショックを受けました。
あの一文はパクリ、だったのです。
オリジナルは寺内寿太郎という詩人でした。
新聞記事とネット検索で調べたことを要約すると以下のようになります。

寺内 寿太郎(生没年不詳)は昭和初期の詩人。
多感な人物だったようで自殺も企てている。
その彼が完成させた『遺言』(かきおき)というタイトルの
詩稿のなかに「生まれて、すみません」も含まれていた。
『遺言』は寺内のいとこで評論家の山岸外史を通じて、
太宰の目にとまり、太宰は短篇「二十世紀旗手」の冒頭に剽窃する。
作品を黙って使われた寺内は
「生命を盗られたようなもの」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、
盗作であることを公表しようとしたが、山岸がなだめ自重させた。
その後、寺内は消息不明となり世間から顧みられることもなかったが、
後年、山岸外史が事実を明らかにした。
しかし、寺内寿太郎がまったくの無名であったこともあり、
「生まれて、すみません」は太宰治の文学、生きざま死にざまを
表すキーワードとして、後世に読み継がれている。

う〜ん、何だか青春の1ページにグレイな染みがついたような気分です
(OTTAVA清水 清さん http://blog.ottava.jp/ottava_moderato/2010/04/post-f2f7.html



posted by ピアノ at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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