2009年12月31日

雄山荘についての太田治子さんの思い




雄山荘全焼:名作生んだ旧別荘焼失、惜しむ太宰ファンら /神奈川

12月27日12時0分配信 毎日新聞
 太宰治の小説「斜陽」の原点となった小田原市曽我谷津の旧別荘「雄山荘(ゆうざんそう)」が26日、全焼した。雄山荘を見守ってきた人々は、名作を生んだ舞台の焼失を惜しんだ。【澤晴夫、高橋直純、池田知広】
 ◇小説のヒロインのモデルの娘、作家・太田治子さん「母の青春がいっぱいあった場所…」
 ◇小田原の文学に光と風を送る会代表・田中美代子さん「保存への夢、途絶えた」
 太宰と小説のヒロインのモデルとされる太田静子さんとの娘で、作家の太田治子さん(62)は、雄山荘で生まれた。父母を描いた作品「明るい方へ」を出版したばかりで、「この2年間は随分、すぐそばに足を運んでいた。母にとっては、悲しい思い出があるけれど、青春がいっぱいあった場所」と生家の喪失を惜しんだ。
 治子さんを迎え、来年1月23日に小田原市民会館で講演会を開く「小田原の文学に光と風を送る会」の田中美代子代表(84)は、「雄山荘のことや『斜陽』誕生の話を聞く矢先だった。残念というか、悲しい気持ちでいっぱい」と話した。「(保存に向け)何とかしなければと思っていただけに、長年の夢が途絶えたという気持ち」とも語った。
 同市企画部の時田光章次長は、市広報課に在籍していた十数年前、雄山荘を「小田原古建築の意匠」として後世に残すためのビデオ撮影にかかわった。「『下曽我のお別荘』と呼ばれ、『書院の間』『網代の間』など、遊び心でぜいを尽くした、色気のある建築だった」と振り返った。「小説に出てくる台所のボヤの跡も残っていたし、杉皮ぶきの洋式トイレや、お風呂も凝った造りだった。ものすごく残念」と惜しむ。
 雄山荘の向かいに住む西久保禎彦さん(72)は「庭にあった池で水遊びをした思い出がある。太田静子さんは治子さんが生まれ、世間に気兼ねしているようなところがあったが、明るい人だった」と振り返る。
 近くの主婦(88)は「私が7歳のころに建てられた。(最寄りの)下曽我駅から石を運ぶのに1日がかりだった。農家ばかりの中で、おしゃれな家だった。廊下の壁に中国風の彫り物がしてあったり、いろりがあったり、百人一首が描かれたびょうぶがあったり。富士山や真鶴半島がよく見えてきれいだった。本当にもったない」と話していた。
12月27日朝刊




雄山荘焼失「寂しいけれど、一つの区切り…」 太宰の娘、太田治子さん
2009.12.26 19:02 産経ニュース

 「雄山荘」は昭和初期、東京の印刷会社社長が接客用の別荘として建てた。昭和22年2月に太宰治が数日間滞在。その後、没落する旧華族の姿を描いた名作「斜陽」を書いた。太宰の生誕100年の年に、ゆかりの建物が失われた。

 太宰の娘で作家の太田治子さん(62)によると、太田さんの母で「斜陽」の主人公のモデルとされる静子さん(故人)が戦時中に疎開し26年まで暮らした。太田さんは3歳まで暮らし、「かやぶき屋根の数寄屋造りながら、2階に中国風の間とスペイン風の寝室があり、風流で落ち着いた雰囲気の家でした」と振り返る。

 太宰は愛人だった静子さんに「ここはいいところだ」と繰り返していたという。太田さんは「小説のイメージ通りの舞台を見つけ、太宰は喜んだと思う。母もうれしかったでしょうが、愛人の立場として永続できない悲しみもあったはずです」。

 太宰は静子さんの日記を下敷きに22年6月、「斜陽」を書き上げ、翌23年6月、別の愛人と東京都三鷹市の玉川上水に入水した。

 今年9月、太田さんは雄山荘を舞台に、父母についてつづった著書「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を出版した。「寂しいけれど、家が朽ちていくのを見るのもつらい。これが一つの区切りかなとも思う」と話した。



posted by ピアノ at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 太田治子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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