2010年10月22日

太宰治の専門ブログ「太宰府」が消えた

・・・かも知れないので、念のためにコピー
させていただきました。かならずしも私の考えと
一致しませんが、わかりやすい考察だと思います。
復活して欲しいです。


太宰府

太宰治について調べたこと考えたことあれこれ

Pagetop
2008-11-23
山崎富栄と青酸カリ
山崎富栄が青酸カリをもって太宰をおどしたという話は再三語られていることである。
野原一夫は、昭和23年の年が明けたころ、太宰からそれを聞いている。

「先生、治子ちゃんの顔を見に下曽我へ行かれたらどうですか」
 虚をつかれたふうに太宰さんはこちらを振り向いた。
「お会いになりたいでしょう。治子ちゃんに」
 太宰さんは座って、
「そりゃあ、会いたいね。筑摩の古田さんもそう言うんだよ。行って、子どもを抱いてこいってね」
「ぜひ、そうしたらいいです」
 太宰さんは、すこし苦しそうな顔をした。
「奥名さんには黙っていればいいじゃないですか。筑摩書房でも新潮社でも、仕事で2,3日カンヅメになるっておっしゃったらどうですか。口裏はあわせます」
 太宰さんはそれには答えず、声をひそめて
「青酸カリを持ってるっていうんだ。いや、ほんとうらしい。作り噺のできる女ではないからね。俺をおどすんだよ。へんなことをしたら薬をのみます、えらく厳粛な顔をしてそう言うんだ。こんな狭い部屋のどこにかくしてあるのかね。俺も時々、いない時にあちこち家捜ししてみるんだが、どうしても発見できない。よほど巧妙にかくしてあるにちがいない」

 この一文を読んで、私はむしろ野原氏のデリカシーを疑うのであるがどうだろうか。愛人に生ませた子供に会いに行けと、なぜ編集者がこうも熱心に勧めるのだろう。プライバシーの問題である。
 昭和23年1月の富栄の日記から太田静子に関する記述を見ると、以前も挙げた

「読んでごらん」と仰言ってみせて下さる。
「今までの中で一番下手なお便りですね」と言ったら、
「うん、一番ひどいよ。自惚れすぎるよ。斜陽の和子が自分だと思ってるんだなあ。面倒くさくなっちゃったよ」
「二人で、何んとかしてゆきましょう」

 という会話が出てくる。1月10日の日記である。1月16日の日記にはその返信として太田静子の弟に宛てた手紙の全文が記されているが、その中に

先日、姉上様よりお便りの、お金のことにつきましては、依頼したおひとに、あちこち調達させていられますから、もう少しの間お待ちくださいますように、太田様より姉上様へおつたえくださいますようお願いいたします。よろしくおねがいいたします。

とあるので、静子からの手紙がお金の催促であったことがわかる。そしてこのときから富栄は、自分の貯金から崩して毎月一万円を静子に送らなければならなくなるのだ。あとすこしで銀座に美容院が再建できるといわれた富栄の貯金は、20万円であった。

 日記にある会話も、文面も相当に苦しい。静子からの手紙が届いた翌日11日には、太宰が

「僕、本当に、死ぬよ」

 と富栄に言っている。
 その状況で、太宰は野原に下曽我へ行けと薦められたのである。野原にしてみれば好意であっただろう。野原は太宰に逃げ場ななくなるまで「助け舟」を出している。確かに富栄は太宰が静子に会いに行ったら死ぬと、そのくらいのことは言ったかもしれない。女であれば言うだろう。しかし、太宰が野原にこれを言ったのは、野原の「好意」を体裁よく断るだめだったと考えるのは不自然だろうか。
 また新潮社の野平健一も太宰から「青酸カリを探してくれ」と頼まれている。こちらはその二ヵ月後の昭和23年3月と野平は書いているが、「如是我聞」第一回の口述筆記の日のことであるかが2月27日である。しかも同じ日、太宰は野平の前で富栄とキスをしたという。それを野平は

二人の結びつきに就いて、私がいつまでも”そんなことはないだろう”という疑わしい顔つきをしているから、その疑いをはらすために、してみせたのだと、そのとき太宰さんは説明した。

 と書いており、そのあと、富栄が買い物にいった隙に

「ノヒラくん、この部屋のどこかに青酸カリが隠してあるんだ。探し出してくれよ」
「別れ話になったら、玉川上水に飛び込むっておどかすんだねえ」

 と言ったという。
 これは私の推測であるが、おそらく野平は、野原と同じように太宰に何か「好意」をはたらいたのではないだろうか。治子のことについて野平は知らなかったようであるから、あるいは、何か、予防策として、太宰は、それをしたのではないだろうか。
「人間失格」を書くために熱海へ行ってまもなくの3月9日、太宰と富栄は静子のことでもめている。

伊豆の方(註:静子)に、ここに来てもらって話をつけようかと思う、と仰言るので、背筋がすうっと寒くなって、力が抜けて、少しふるえ出してしまったけど、一度はは逢って話さなければならないと仰言っていられたので同意したことから、波紋を招いて、昨夜(8日夜)は一晩中二人共うつらうつらしたりして、語り明かす。お互いに思いやりすぎて、時々こうしたことが起こる。
 どうしても別離など出来ない私達のこころ、一層愛情を深め、信頼を高めて生きてゆこうと暁を迎える。

 お互いを思いやりすぎて、ということであるから、太宰は富栄が送金していることが苦しかったということであろうか。子供がいるのでけじめをつけようという話ではなかっただろうし、富栄を同席させることにしてあるので逢いたいという話でもなかっただろう。
 この熱海行きは野平との話にも出ていた筑摩の古田が行く道に同行している。古田は8日に帰っているが、おそらく、太宰は古田にまた治子に会いに行くようにすすめられてもいたのだろう。そののち5月26日の日記にも古田が治子に会いに行くようすすめているとあるので、治子のことを知っているものは太宰に逢いにいくようにせめたてていたのだろう。当時太宰は、文壇から孤立もしていたし、そんな「好意」にも囲まれていた。
 「如是我聞」口述筆記から数日後、太宰の熱海行の直前、野平は妻を連れて太宰を訪ねているが、その日の富栄の日記は思わせぶりである。

 三月三日
 野平さん御夫婦が、太宰さんと御一緒にお昼頃おいでになった。毎日新聞の平岡様と古谷さんが午後おいでになる。
(お友達としての今の私に、何かを与えることの出来る人は、何かを学ぶことの出来る人は、加藤さんと久我さんになってきているようだ)
 ***
 およそ人間のうちで最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間外れにされたのである。どういう苦しめ方が、僕の敏感な魂に最も残酷であるかと、彼等はその憎悪の極をつくして考えめぐらしたのだ。

 また、井伏鱒二「をんなごころ」には「千草」の女将増田静江と井伏との会話の中でそれが出てくる。しかし、増田静江自身の証言では私はまだ見ていない。本当に増田静江がそれを言っていたとしても、全幅の信頼を置くことができないのは昨日書いたとおりである。
 山崎富栄が本当に青酸カリを持っていたかどうかはさだかではない。日記には確かに「薬は青いトランクの中にあります」と書いてあるが、自殺にあたってそれは使われなかった。太宰と富栄が玉川上水に身を投げたとき、青酸カリを飲んでいたのではないか、それが飲み水に混じってはいないかと帝都は震撼したが、水から青酸カリは検出されず、遺体にも青酸反応はなかった。青酸カリを本当に持っていたなら、溺死よりずっと楽に死ぬことのできるそちらを使ったのではないだろうか。しかしこれは、私であればそうする、という憶測にすぎない。

読書ブログランキングへ

theme : 文学・小説
genre : 小説・文学

* 山崎富栄 :
* コメント : 0 :
* トラックバック : 0

Pagetop
2008-11-23
山崎富栄への嫉妬
山崎富栄は文壇史上まれに見る憎しみを受け、悪女の烙印を押された女性である。昭和23年6月13日の情死事件以来、彼女を悪しざまに言った文士はそれこそ数え切れないであろう。それがいつにはじまったものか、といえば、先日も書いたように事件の翌月から既に亀井勝一郎や坂口安吾によっておこなわれているのであるが、富栄への憎しみは、太宰と富栄の遺体が引き上げられたその日から既にはじまっている。太宰の遺体はすぐに棺に入れられたが、富栄の遺体は筵をかぶせられたまま、降りしきる雨のなか昼近くまで放置された。また、引き上げられてすぐ三人の編集者が二人を結ぶ紐を切ったことが編集者野原一夫が著書「回想太宰治」のなかで述べているが、そのときの空気、心境をこのように述懐している。

紐で結ばれている太宰さんの姿を人目に曝したくないという気持が、咄嗟に働いたのだろう。おおむねの新聞は、太宰治の死を”情死”として書き立てていた。その無智で卑属な世間の目から太宰治を守るためには、紐は切られねばならなかった。あの異常な状況のなかで、咄嗟にその判断がひらめいたのだろう。またあるいは、そのときの私たちには、富栄さんへの憎しみたあったかもしれない。太宰さんを奪られてしまったという憎しみが。紐でなど結ばせておくものか、そんな怒りにも似た気持ちも、なかったとはいえない。

 野原一夫は、太宰が死んだら自分も死ぬので棺に写真を入れてほしいと頼まれて、一途な富栄がいじらしくなり、

「みんなでやってあげますよ。比翼塚だって立ててあげられるかもしれない」

 と彼女に言ったエピソードを同書の中に書いてる。その野原さえ、この事件にあたって富栄を憎んだ。太宰を訪ねたら富栄に追い払われたりした編集者やファンたちであればなおさらであろう。

 野原だけではない。太宰に仕事部屋を提供していた「千草」の女将増田静江も、富栄に関して、

「正直言いますと、私でさえ、太宰さんが山崎さんの方へ行かれてしまった後、変に寂しいような、焼餅を焼いたみたいな山崎さんが憎たらしい気持にさせられたものです」

 と、憎しみがあったことを回想している。

 その増田静江による太宰と富栄の関係の証言は興味深い。

これは私の勝手な憶測もまじっては居りますが、恐らくあの方は、山崎さんの辺り構わないむき出しになった愛情にいくらか辟易なさって居られたのではないでしょうか。下連雀のお家に帰られることも少なくなって、はなはだしく健康も害されて、普通の人ではちょっと想像もつかない生活の中で、太宰さんの本当のお友達が気遣われていらしたように、太宰さんも出来ることなら山崎さんから離れたいお気持ちは確かにあったと、私は今でもそう信じて居ります。

 けれども、それは太宰さんにはどうしたってお出来にならないことでした。

 この証言は、「勝手な憶測」「ではないでしょうか」「そう信じております」など、文節すべてが増田静江の推理であることを示しており、事実として語られているものを挙げると

「山崎さんの辺り構わないむき出しになった愛情」

「下連雀のお家に帰られることも少なくなって」

「はなはだしく健康も害されて」

「太宰さんの本当のお友達が気遣われていらした」

 と、「太宰が辟易していた」という結論に結びつく証拠となりうるものが何もない。さらに「山崎さんの辺り構わないむき出しになた愛情」が何を指しているのかを見てみると、

編集者の方、出版社の方、お友達や若い人たち、太宰さんを訪ねてみえられるお客さんの数は毎日大変なもので、私など、作家という仕事はこんなに人に追い回されなければならないのか、と呆れたものである。私たちまで応接にいとまのない有様で、お断りをいうのに骨を折りました。山崎さんは生一本な人でしたので、女の人なら大抵の方がそうなのではないかと思いますが、そんな阿修羅とでも形容したい中で、尚、太宰さんを独占してしまいたかったのではないでしょうか。
 周囲を顧る余裕などなく、ただひたむきな愛情を太宰さんに注ぎ山崎さんのすべてを傾けていかれたのではないでしょうか。それが結局は、太宰さんがお友達と疎遠になって行くその原因になったと思います。
 階下の部屋で、太宰さんと呑んで居られてた3,4人のお客さんが、太宰さんに向かって直に山崎さんの態度を罵るのを耳にしたことがあります。

 「お断り」は増田静江も言っていることなのに、富栄がいうと「独占欲」になるのである。嫉妬深かったのは、富栄ではなくむしろ周囲の人々であったと私は結論している。増田静江は

 太宰さんは、ふと哀しそうな顔をなさって
「あのひともすっかり嫌われてしまったな」
 と洩らされたことがございます。

 とも証言している。事実と推測を書き分けていても、嫉妬という悪意があると、それが空気とともに伝わり、その空気そのものが伝言ゲームの中で事実になってゆく。富栄の人間像はそうしてつくられていったのである。

 富栄は昭和23年3月3日の日記に、ルソー「孤独な散歩者の夢想」の冒頭を引用して書いている。

 およそ人間のうちで最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間外れにされたのである。どういう苦しめ方が、僕の敏感な魂に最も残酷であるかと、彼等はその憎悪の極をつくして考えめぐらしたのだ。

 これが富栄自身の心境であるのか、太宰の境遇がそう見えたのかはわからないが、太宰を独占してふたりきりの世界に生きたいと願う女の言葉としてはありえないものであるように私は思うのである。

読書ブログランキングへ

theme : 文学・小説
genre : 小説・文学

* 山崎富栄 :
* コメント : 0 :
* トラックバック : 0

Pagetop
2008-11-23
山崎富栄と太田静子
 太田静子は「斜陽」のモデルとして知られた女性である。「斜陽」は、その前半はほとんどといっていいほど静子の日記の引用によってできている。
 まずその静子と太宰との関係を追ってみると、太宰と太田静子の出会いは昭和16年9月上旬、静子がファンのひとりとして友人二人と太宰を訪ねたのがはじまりである。太田静子はそのとき28歳、一度結婚して子供を産んだが一ヶ月で死なれ、そののち離婚して、以来文学を勉強していた。まったくの素人ではない。21歳のときには短歌集を出版したりもしている。太宰のもとへ、娘の死を題材にした小説を持ち込んだ。その時点で太宰は静子に日記を書くよう勧めているから、最初から彼女に何か、題材になるものを感じていたのだろう。日米開戦の前夜、狂騒の時代にあって、何も主張せずロマンチックな夢の中に生きているような静子は、あるいは、太宰には奇跡のような存在に見えていたかもしれない。しかし静子は、太宰に依存してゆく。危機感を感じたか、太宰は弟子の堤重久に静子を紹介するが、叶わず、静子はますます太宰にのめりこみ、戦争が終わると、静子はやがて「太宰の赤ちゃんが欲しい」と手紙に書き送ってくるまでになる。それに対する太宰の返事は苦しい。

 拝復 
 静夫君も、そろそろ御くるしくなった御様子、それではなんにもならない。
 かえって心の落ち着くコイ。
 憩いの思い。
 なんにも気取らず、はにかまず、おびえない仲。
 そんなものでなくちゃ、イミナイと思う。
 こんな、イヤな、オッソロシイ現実の中の、わずかな、やっと見つけた憩いの草原。
 お互いのために、そんなものが出来たらと思っているのです。 
 私のほうは、たいてい大丈夫のつもりです。
 私はうちの者どもを大好きですが、でも、それはまた違うんです。
 やっぱり、これは、逢って話してみなければ、いけませんね。
 よくお考えになってください。
 私はあなた次第です。(赤ちゃんのことも)
 あなたの心がそのとおりに映る鏡です。
 虹あるいは霧の影法師

 これを書いた時点で、「斜陽」の構想は決定している。戦時中静子に小田静夫と名乗らせ文通をしながら、伝わってくる日記の内容に思うところがあったのだろう。
 太宰に太田静子に対する恋愛感情があったかどうか、私には察することができない。日記を手に入れるためになだめになだめた様子が伺えるし、静子の存在が本当になぐさめにはなっていたようにも見える。
 昭和22年1月、太宰と会った静子が

「世界の進歩のために、ギロチン台にお立ちになる時は、私もついてゆく」
 と言ったとき、太宰は嬉しそうな顔をしたという。また、その二ヵ月後に静子が懐妊を知らせたときには、

「赤ちゃんが出来たからには、もう一緒には死ねないよ」

 と言ったというから、おそらく、太田静子は太宰の数少ない理解者ではあったのだろうか。ただ、太宰の本当の願いを知っていたら、赤ちゃんが欲しいと言い出すことなどできなかったであろうから、やはりそれは、恋だったのだろう。
 太田静子と山崎富栄は、一度顔を合わせている。昭和22年5月24日、妊娠した静子が弟とともに太宰を訪ねてきたときのことである。その三日前、富栄は太宰と結ばれていた。太宰は静子と話をしようとはせず、反対に富栄はとても機嫌がよかったようで、編集者野原一夫と「ヴィヨンの妻」を語り合い、

 サッちゃん、大いに酔う。

 とその日の日記を結んでいる。当然、太宰と静子の関係は知らない。
 富栄がそれを知ったのは、半年後の11月15日、静子の弟が太宰に認知を迫りに来たときのことである。太宰は、静子との娘に名前をつけ、法的には何の効力もないが、

 証
 太田治子
 この子は私の可愛い子で
 父をいつでも誇って
 育つことを念じている
 昭和二十二年十一月十二日 太宰治

 と書いてそれを渡した。富栄はその席に同席したのである。日付が12日となっているのは、静子が出産した日が12日だったからである。富栄はそのときの苦しさを

 苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが、何処か、遠くの方へと抜き取られてゆくみたいでした。

 と書いている。太宰も苦しかっただろう。太宰も静子の身内に責められ、家族への裏切りを形になしてしまい、富栄すら苦しめているのだ。富栄はそれを承知している。

 私が泣けば、きっとあなたが泣くということは、わかっていたのです。でも泣くまい、そういうことを承知していても、女の心の中の何か別な女の心が泪を湧かせてしまうのです。
 泣いたりして、すみません。

 懸命に耐える富栄は、私にはいじらしくさえ見える。

”子供を産みたい”
”やっぱり、私は敗け”
(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。死にたい位のくやしさで、泪が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に・・)
 救ってください。教えてください。
 主よ、御意ならば我を潔くなし給うを得ん。わが意なり、潔くなれ。

 太宰と一緒に死ぬ役割を負った富栄は、この世に、太宰とともに生み出したものをかたちにして残すことができない。ひきかえ、太田静子は、婚姻外という何の束縛もない関係のなかで、太宰との「作品」を残したのである。太宰と苦悩を共にしているはずの自分ではない、ほかの女性が太宰との作品を残した、だから”敗け”である。これをうらやむことは異常な嫉妬だろうか。しかもそれを富栄は懸命に耐えている。
 太宰は以後、静子からの手紙をすべて富栄に整理させ、静子への返事も富栄に書かせた。それが太宰にできる精一杯のことでもあっただろう。このような状況の中で、太宰の周囲にいるものは治子に会いに行くようにと勧めたりしていたのである。それに対して
「行くと富栄が青酸カリを呑むと脅す」
 と太宰が言ったことは、あるいは事実かもしれないが、口実と考えるのも不自然ではないだろう。
 その後、静子は乳が出なくなり、病を得て、だからといって私生児を産んだからには実家を頼るわけにもいかず、困窮したなか、
「太宰は治子の父親だから三年だけ頼ろう」
 と、太宰に送金の催促をするようになる。太宰の妻は知らないことである。富栄は、自分の貯金を崩してそれを送った。富栄にしてみればたまらないことであっただろう。昭和23年5月26日の日記の言葉は、富栄のヒステリックな性格を物語るエピソードとして「ピカレスク」などにも引用されているが、同じ状況に立たされて微笑んでいられる女性というものが果たしているのだろうか。

 伊豆の方ご病気
 一万円電ガワにて送る
 子供もだんだん大きくなるのに・・
 ゆきづまったら死ね!
 ああ、どうして人は、みな一人一人悲しいものを背負って生まれてきたのでしょう。

 昭和23年は、まだまだ誰もが貧困の中で懸命に生きている時代である。現代よりも貧困も死もずっと身近であったし、富栄も太宰も太宰の妻も茨の道である。インフレも起こり、富栄の貯金も尽きてきていた。そのなかで、富栄から見ればなかば強引に太宰の子供産んで、しかもその送金にたよってこの時代を生きようとする静子の甘さはゆるしがたいものであっただろう。自分の送金が太田母娘の命を握っていることもプレッシャーでもあっただろう。一万円、簡単な金額ではない。ただ、この時期、富栄が精神の均衡を失ってきていたのは確かのようである。これについてはまた書くが、それを差し引いても、富栄の嫉妬が異常なものであるとは私には思えない。
 昭和23年6月16日、太宰と富栄が心中したときの東奥日報に、興味深い記事がある。

 ザラ紙●枚に書いた一通の遺書には
「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり、長居するだけみんなを苦しめ、こちらも苦しい、かんにんして下されたく、子供は凡人にてもおしかりなされまじく・・」
 とあった

 「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり」のくだりは公開されている遺書にはない。非公開の部分であるのか、誤報であるかどうかはわからない。

読書ブログランキングへ

theme : 文学・小説
genre : 小説・文学

* 山崎富栄 :
* コメント : 0 :
* トラックバック : 0

Pagetop
2008-11-23
山崎富栄と津島美知子
 山崎富栄が嫉妬深いというイメージは、最初に紹介した瀬戸内晴美「三鷹下連雀」や猪瀬直樹「ピカレスク」などにおいて強調されたことであり、昔からとにかくこれが太宰を死に至らしめたと多くの作家評論家が口にしてきたことである。
 実際、富栄の日記には、太田静子への嫉妬と戦う苦しみがなまなましく書き付けられている。瀬戸内晴美などはそれが太宰を破滅的な生活に追い込んだものとしているわけであるが、果たして富栄の嫉妬が異常なものであったのかを考えてみる。
 私が富栄=情念の女というイメージに首をかしげたのは、富栄の日記に書かれた太宰の妻に対する言葉が、あまりにも慎ましく、嫉妬深いというには程遠いものであったからである。富栄は終始、太宰の妻に対し、申し訳ない気持ちを抱いており、奪うような気持ちも持っていなければ、恨むような気持ちもない。昭和22年12月5日の日記には

「妻や子供と別れて、君と一緒になってみても、周囲からの攻撃は、君を一層苦しい立場にするだろうしなあ」
「いいえ、そんなこと、わたしには出来ません。奥様に申し訳ありません。わたしはこのままの形式でいいのです。本当に、あなたの仰言るように、十年前にお逢いしとうございました」

 という太宰と富栄の会話が残されている。
 富栄が太宰の妻をどのように思っていたかは、遡って昭和22年7月23日の日記に書いてある。

 悪いけど、私も奥様は怖い。初めての日の夜”こわいんだ、僕はこわいんですよ。救ってくれ”と仰言ったお言葉を想い起こす。不幸な家庭。奥様って、女学校の先生のような感じのするお方だと思った。
 御免なさい。奥様。こんな浅ましいことなどして、私は・・・・

 太宰と富栄が出会って三ヵ月後の日記である。結ばれて、一番有頂天になっている時期の女性がこのように恋人の妻に憎しみを向けずにいることに、私はむしろ驚く。この「怖い」という表現であるが、太宰と富栄の場合、太宰の妻が「怖い」という意味ではなく、この妻を裏切っているということが「怖い」ということであると思う。太宰と富栄は、この時点で既に「思想のために共に死ぬ」という約束をしている。不幸な家庭、というのは、太宰の妻を非難した言葉ではなく、これがこれから失われてゆく家庭だからであろう。
 太宰と富栄が一緒に死んだ理由、これは今でもさまざまな説をもって語られる文壇の謎とされている。もちろん、私の考えもその憶測のうちのひとつである。本当のことは誰にもわからない。富栄と太宰も、それを誰にも知られなくてよいと思っていたようである。昭和22年8月22日の日記から引用する。

「先生は近ごろあまり書きすぎますね。自殺するんじゃないかと思うんだ。」
 と北山さん。胸をつかれる。毎日が死との闘争。一字一句が死との闘い。太宰さんを、一面ずつ知ってゆくことは悲しいけれど、近づいてゆく喜びもある。
「貴女このごろ、顔の色がよくありませんね」と野原氏。
 よくありませんとも。死んでしまうまで、誰れにも、何んにも識られたくはない。そしてまだ誰れも、何んにもしらないでいる深い理由を。死んでしまって、誰れにも判らないことだらけ。二人だけで沢山だ。

 この日の日記からも、富栄と太宰の死は意図があるものであることが察せられるのであるが、その意図を推測するにあたり、私は、太宰の文学に見るテーマをもう一度思い出す。それは、太宰の小説がすべて日常を懸命に生きる人の幸せのために書かれたものであったということである。
 太宰は、昭和22年1月、富栄に出会う直前に書いた「ヴィヨンの妻」を皮切りに富栄と共に過ごす生活のなかで「父」「おさん」「桜桃」など、自分の家庭をモデルにした小説を何篇も書くようになっている。夫の放蕩に耐えている妻の姿は、常にけなげである。太宰は自分の妻という実在の人物を

「人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。」

という、人間の理想の具現化として何度も描いた。そして自分を、裏切り者として何度も描いた。「斜陽」において直治が恋した大谷の妻も、読者には太宰の妻津島美知子のイメージがかさねられるように書いてある。
 心中は、それを現実のものとするためのものであったのではないかと私は思うのである。富栄は裏切りのための決定的なアイテムの役割を買って出たのではないだろうか。そして、太宰の妻は、現在なおどの評論を読んでも「賢夫人」と呼ばれ、けなげで、美しい印象を与え続けている。日常を捨てた太宰は死後もさまざまな謗りを受けたが、日常に生きた妻は太宰文学の中でも一番高い場所で輝きを放っている。太宰は、その輝きを、読者たち、これからを生きる人々の希望にしようとしていたのではないだろうか。富栄はそれに賛同し、太宰と共に死んだのだと私は考えている。
 太宰の遺書は、最後の九枚目にこのように書かれている。

 美知様
 お前を
 誰よりも
 愛してゐま
 した

 長部日出雄はそれを富栄がいない隙に書いたものであると推測しているが、私は、富栄は承知していたと考えている。この言葉にいつわりがなかったことも、承知していただろうと考えている。富栄は、けっして異常な嫉妬深さを持っている女性ではない。むしろ、妻のある男性との恋愛に、深い理解と慎み深さを持って臨んだ女性であったのだと私は考えている。

読書ブログランキングへ

theme : 文学・小説
genre : 小説・文学

* 山崎富栄 :
* コメント : 0 :
* トラックバック : 0

Pagetop
2008-11-23
山崎富栄とキリスト
 まず、山崎富栄日記の最初の一日を全文書き写す。

三月二十七日
 今野さんの御紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれば、やっぱり特殊階級にあるひとである・・作家という。流説にアブノーマルな作家だとおききしていたけれど、”知らざるを知らずとせよ”の流法で御一緒に箸をとる。”貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。
 初めの頃は、御酒気味な先生のお話を笑いながら聞いていたけれども、たび重ねて御話を伺ううちに、表情、動作のなかから真理の呼び声、叫びのようなものを感じてくるようになった。私達はまだ子供だと、つくづく思う。
 先生は、現在の道徳打破の捨石になる覚悟だと仰言る。また、キリストだとも仰言る。・・「悩み」から何年遠ざかっていただろうか。あの時から続けて勉強し、努力していたら、先生の御話からも、どれほど大切な事柄が学ばれていたかと思うと、悲しい。こうして御話を伺っていても漠然としか理解できないことは、情けない。
 千草で伺った御言葉に涙した夜から、先生の思想と共になら、あの時あの言葉ではないけれども・・「死すとも可なり」という心である。
 聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問に応えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」。「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話した時、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ、そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持がして涙ぐんでしまった。
 戦闘、開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。

 日付は三月二十七日とあるが、この日記は、その少し後、太宰に数回会ったあと太宰に勧められ、太宰に提出することを前提に書かれたものと思われる。場所が「うどん屋」「千草」の二箇所に及んでおり、これだけならばハシゴしたことも考えられるが「たび重ねて御話を聞くうちに」とあり、さらに次回四月三十日の日記では

初めの頃は御一緒に席についていても手持ち無沙汰で、先生のお煙草ばかり喫っていたせいか、大変に数を喫うようになってしまった。

とあり、三月二十七日から四月三十日にかけて、日記に書かれていない日にも数度会っていることが察せられる。ただしその翌年三月二十七日には

「私達夫婦が、はじめてお逢いした
 その一周年記念の日」

 とあるので、三月二十七日が最初の対面日であったことは間違いないだろう。
 さて富栄が聖書に初めて触れたのは、幼稚園でのことである。富栄の通った愛の園幼稚園はキリスト教系だった。次に触れたのはそのずっとのち、語学を学ぶためにYWCAに通った時期で、富栄は、高見澤潤子に師事して聖書と演劇を研究している。日記にある「あの時から続けて勉強し、努力していたら」というのは、高見澤潤子のもとで勉強していたときから、ということであろう。
 幼稚園はキリスト教系であったが、富栄の家はキリスト教ではない。その富栄がYWCAで聖書に触れ、深く共感したのは、美容学校経営者であった父母の教育に打ち込む姿にキリスト教における「奉仕の精神」「隣人愛」につながるものを見たからではないかと思う。富栄の父山崎晴弘は誇り高く愛情の深い教育者で、授業についてゆけない生徒には資格がとれるまで授業料を追加することなく教育し、道具は刃物はドイツ製、櫛は職人の作った最高のものを生徒に買い与え、自分の学校を巣立った生徒がどのような境遇にあっても胸を張って生きてゆけるよう心を砕いて教育にあたっていたという。聖書を深く理解した太宰の言葉が富栄の「一番弱いところ、真綿でそっと包んでおいたもの」に触れたというのは、そうした父母に育てられた、一番核心の部分「奉仕への願い」に触れたということではないだろうかと想像する。
 たとえば猪瀬直樹の「ピカレスク」では、富栄と初めてあったときの太宰が

「預言者故郷に容れられずって知っているか、キリストだよ、キリスト。僕は生まれ故郷にも、わが家庭にも容れられずだ。」

 といつもの軽口を叩いたとされ、それを富栄が真に受けた、とされている。どの本を読んでも大体似たような、富栄ばかりが真に受けたことのように書かれているが、私は首をかしげる。富栄は聖書を本格的に勉強し、聖書の言葉を、と問いかけられて、「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」とすらすら口に出すことのできる女性である。しかも、その師は高見澤潤子である。もし太宰の言ったことががそうした軽口であれば、富栄はたちまち太宰を軽蔑しただろう。ましてや、自らキリストを名乗れば、怒りさえおぼえるだろう。しかし、富栄は、太宰との長い話のなかで自分の勉強不足をすら悔いている。これは太宰の苦悩がキリストと同じものであることを認めたということであろう。

「”貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。」

 の記述についても、富栄の恋が盲目的であった証拠としてよく挙げられているが、富栄の父母は宮家に奉仕する美容師であり、富栄も同じように宮家に出入りしているので本物の貴族を知っている。これも、軽口のたぐいであったら富栄はそれを軽蔑しただろう。日記は断片的であるから想像するよりほかはないが、太宰は「貴族」という意味をきちんと富栄に語ってもいるのではないだろうか。このとき、太宰は「斜陽」の執筆中である。「斜陽」において、貴族とは弱さの美しさの象徴として滅んでゆく人々である。それと同じものを富栄は太宰の中に見て、こうして書いたものであるように私には感じられる。太宰が「斜陽」において「貴族」にこめた思いは複雑である、富栄はその複雑な思想を自分のペンで再現することができず、このように端的な書き方をして、それが誤解を招いてきたのではないだろうか。
この日の日記からは二箇所が「斜陽」に引用されている。

 「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」。

 戦闘、開始!

読書ブログランキングへ

theme : 文学・小説
genre : 小説・文学

* 山崎富栄 :
* コメント : 0 :
* トラックバック : 0


Powered by FC2 Blog
Copyright (c) 太宰府 All Rights Reserved.

プロフィール

Author:Беркут
38歳
女性
twitterID:berkut25


posted by ピアノ at 22:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
swimeverjp.biz レディース水着 大きいサイズ 競泳水着 セール http://www.swimeighteenjp.biz/
Posted by 競泳水着 セール at 2013年08月03日 04:38
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
記事検索
 
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。