梅祭りでにぎわう小田原・下曽我にあるこの家は、今では太宰治の名作『斜陽』の家として
世に知られている。どんなにそれが近代建築として価値があるといわれる家であっても、
太宰治が『斜陽』の題材に使わなかったら、たぷんこれほど注目されることもなかったで
あろうし、取り壊される寸前に、九死に一生の命拾いができたとはとても思われない。
大正十四年九月十四日、加来金升(かくきんしょう)氏が神奈川児足柄下郡下曽我村
曽我谷津大木(おおき)の元という地番に六百壱坪の土地を借地することから、この家の
歴史は始まる。大木(たいぼく)の根元の土地とはなんと素敵なことだろう。
加来金升は、明治十八年大分県に生まれ、父政太郎は恵良(えら)家より養子に入り、
母サダは中津の恩田家より嫁している。
素封家で、「政太郎さんはカンガルーの靴しか
履かないし、サダさんは、ハトの肉しか食べないそうな」と噂されたという話が残っているように、カンガルーの皮のように軽くてやわらかな靴しか履かず、ハトの肉のようなやわらかな肉しか食べないとの例え話で、その優雅な生活が想像できる。福沢諭吉と同世代の文明開化
に啓蒙された見本のような、大分の一族であったようだ。
妻皓(こう)の父は海軍軍人であったし、妹の夫や親戚には貴族院議員で男爵の爵位を持つ
人あり、海軍軍人あり、郵船全社社長あリ、変わったところではセレベス島で果樹園を成功
させた人もいるが、この人の親は親戚の上の畑家から養子に入っており、上の畑家の人々と
この家の歴史とは深いつながりがある。後にこの家の運命の鍵となる太田静子が住む橋渡し
をした静子の母の弟(『斜陽』の文中で和田の叔父様として登場する人)は、上の畑家から
大和田家に養子に行き、逓信次官や会社社長をした人である。
(中略)
大正十四年は加来金升氏が四十歳になった年で、心身ともに旺盛な時期であり、この頃の彼
はハーレー・ダビッドソンに跨って華々しく人生を駆け巡っていた。大分の彼の母校である東
院内の小学校に講堂を寄付し、奨学金制度を作ったりしたので校庭に胸像があったそうだが、
昭和の初期の事なので現在はどうなっているのかわからない。
出版関係の友人で下曽我出身の佐宗恵輔氏から「親戚の土地で、富士山の絶景や気候風土の温
暖な別荘地として最適な土地が空いている」という話を聞いたのがきっかけとなり、これまでの
建築家志望の夢を実現させる決心をした。母の余命の短さを知って衝撃を受けた時期でもあ
り、母のためにもと、この地に別荘を建てる決心を固めたのであった。
(中略)
父政太郎はすでに亡かったが、母は病床に臥し、余命を医師に宣告されている状態だった。
何とか母にこの風光の美しい別荘で安穏な時間を持ってもらいたいと望んだのだが、残念なこ
とに母に楽しんでもらうことは叶わなかった。
ともかく、写真なりと見て貰いたいと、家の完成とともに撮影したものを、無念の思いを秘
めて小冊子にまとめた。B6判ほどの小さなもので、落ち着きのある茶色の表紙に緑のリボン
で綴じられており、「大雄山荘」と加来氏の墨跡で印してある。
【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】
加来金升氏の母の「親戚には貴族院議員で男爵の爵位を持つ人あり」と、資産家であり名家であることが窺えます。小冊子の内容については、小学館文庫の「斜陽日記」に詳しい説明があるので、ご存知の方も多いと思います。(小学館文庫の「斜陽日記」は、480円で現在でも書店で手に入ります。)