2009年12月26日

大雄山荘が火災で全焼

現存しているだけでも有り難かった大雄山荘が
無くなってしまいました。平成21年の暮れを
もって瓦礫と化しました。





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太宰治「斜陽」の舞台、小田原の別荘全焼
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2009年12月26日10時16分配信 読売新聞
太宰治「斜陽」の舞台、小田原の別荘全焼

全焼した太宰治ゆかりの雄山荘=冨田大介撮影
 26日午前4時過ぎ、神奈川県小田原市曽我谷津の別荘「雄山荘」から出火、木造2階約140平方メートルを全焼した。

 けが人はなかった。別荘は、太宰治の小説「斜陽」の舞台として知られる。小田原署は不審火の疑いもあるとみて、出火原因を調べている。

 同署などによると、近くを通りかかった男性(49)が「オレンジ色の炎が上がっている」と119番した。建物は、付近の農業男性(63)の所有で、10年ほど前から空き家だったという。約2時間15分後にようやく鎮火した。

 小田原市などによると、雄山荘は、和風を基調としながら西洋風や中国風の形態を取り入れた独特の建物で、1928年(昭和3年)に地元出身の実業家の別荘として建築された。47年2月に太宰が数日間滞在した。

 空き家となった後は、太宰のファンらが約4000人の署名を集めて市に保存を要請。市が所有者と交渉したが、合意に至らず、老朽化が進んでいた。

 太宰の娘で作家の太田治子さん(62)は「9月に雄山荘を舞台にした父母の作品を出版したばかり。生まれてから3歳まで母と過ごした家で記憶は薄いが、何ともさみしく思う」と話した。



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2006年03月09日

「斜陽の家」となる

さて、この大雄山荘が「斜陽の家」となるきっかけは、昭和十八年初冬、前出の大和田氏の計らいで太田静子母娘がこの家に住むようになったことである。
以前から静子は太宰治の「虚構の彷徨」に強く引かれて、この作者を人生の師と仰ぐことを決めていた。次第に尊敬は恋に変じていた。静子がまだ西片町に住んでいた頃に、太宰と幾度か会って自分の作品を見て貰ったりしていたが、太宰から、「あなたは日記をていねいにお書き
なさい」と言われたので、下曽我に住み始めてから一生懸命書いていた。
昭和二十一年九月、津軽へ疎開している太宰に手紙を出し、太宰は一年半の津軽疎開から妻子とともに十一月、三鷹の自宅へ帰った。その後、静子は日記ができた事、こちらの空気が澄んで美しい事などを書いてたぴたび下曽我への来訪の誘いの手紙を出した。
昭和二十二年二月二十一日、太宰は下曽我駅に降り立ち、満開の梅の大雄山荘に滞在したのだった。その満開の梅は、「二月には梅が咲き、この部落全体が梅の花で埋まった。一中略一朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息が出るほど美しかった」と『斜陽』に書き込まれたが、大雄山荘の仔まいは太宰が考えていた『斜陽』の雰囲気にぴったりな舞台であった。

太宰は静子の日記を持って冊巾英光が疎開していた伊豆の三津浜へ行き、安田屋旅館に止宿して三月上句まで掛かって一、二章を書き終え、六月に完成させた。
その年の十一月十二日に静子は女の児、治子を生んだ。
太田静子の手記によれば、
「二、三日の予定がのびて、五日目の朝、支那間の机の上に原稿用紙をひろげて、

  斜陽 太宰治

それだけお書きになって伊豆へ立たれる事になりました」とあり一『斜陽』の中の家の描写は、住んでいた静子の日記が基になっているため、この家のすべてが小説の舞台となっている。半世紀経った今でもまったく当時のままで残されているので、小説の中にたたずんでいるような気がしてくる。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】

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高浜虚子

完成した大雄山荘へは、あの只中にあった時の足繁く出向いた情熱は薄れて、自分はほとんど使わず、感銘の共有できる人にだけ使って貰うことを喜んでいた。
昭和十二年二月七日に上の畑楠窓の肝煎(きもいり)で、高浜虚子が武蔵野探勝の句会をこの家で催した折には、白分の長女・都に振り袖を着せて客の接待を命じている。また、その文中にある木瓜酒とあるのは加来家で造ったシドミの果実酒のことであったそうである。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


加来金升氏が大雄山荘の使用を許した人々が、高浜虚子をはじめとする文化人などであったことを窺わせる。



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太田静子の部屋

「加来家下曽我別荘庭園設計図」では、運動場と記されている所に深い本格的な池を造り、その横の水泳池と書かれた部分を浅い子供の水遊ぴ場として造っているのだが、風景としては池の渚を思わせる浅瀬となっている。彼の収集した骨董の宝庫となり、さらに後に太田静子が一、二年住んだ池の端の庵は、設計図では子供部屋となっている。しかし、これも六月十八日から八月三十一日までかかって職人親子が葺いた茅葺き屋根のお堂となって仕上がっているのである。重厚な木彫りの飾りが付いしとみた板戸を母屋と同じ屠風畳みの扉にし、腰高の窓には蔀(しとみ)が付けてあってとても子供部屋というような軽やかなものではない。

(中略)

日記の中で建前をしている茅葺き屋根の庵があったが、我が家が住み始めた時にはもうな
かった。朽ちてしまったものと思っていたが、これは解体して本宅に持って行ったのだと最近
聞いた。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


日記とは、大雄山荘の向いの西久保さんの長男・豊吉さんという青年が克明につけた日記のこと。庵の移動時期は不明だが、静子さんが母親と暮らし始めた頃に庵を使用していたものと思われる。




posted by ピアノ at 22:43| Comment(0) | 大雄山荘 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平成4年春頃

もうどうにも追い詰められた父の老いの深刻さは、去年一年間、私の全身を霞網のように覆っ
ておりましたが、その上に、この家を取り壊す話が降って湧いたように突然起こったのです。
去年の春ごろは、直しても直しても浸み込む雨漏りで、この家が自滅してしまうかもしれない
と、不安でたまらなかったのに、今度は壊されてしまうかもしれないという不安が募って、家
の中の柱を撫でて歩きながら、「頑張るのよ。絶対に壊されないように頑張るのよ」
と話しかけて不安感を紛らせておりました。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


最後の住人、林和代さんが上記著書の中の「太宰治様へ一筆」で述べられています。
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2006年3月の大雄山荘

無くなっているものと、信じ込んでいた大雄山荘が残されていました。

2006年3月時点ではお屋敷も門扉も残っています。「門を壊さないで」と
書かれた札が汚れてしまっていて、「なんとかしたい」と考えましたが、
もう一度3時間かけて行こうかどうか迷っています。
(勝手に架け替えて良いものだろうか?)


大雄山荘

大雄山荘



門の中には入れません。お屋敷は昭和5年に建てられたそうですが、
思ったより綺麗に保存されているようです。最後の住人、林和代さんが
平成5年の年末までお住まいだったようですが、その頃でさえも雨漏り
の修理が大変だったそうなので、なんとか早く手を入れないと物理的な
問題で解体に向かってしまうのでは?、と心配です。


大雄山荘


大雄山荘に限らず、失われそうで存在している昭和の建造物が筆者には
とてもいとおしいです。そのなかでも大雄山荘には太宰治や高浜虚子
などの由縁があり、存続するチャンスがたくさん残されています。

また、中期の住人である太田静子さんが「太宰治の愛人」などと偏って
認識されていることを払拭することで、大雄山荘の文化的・歴史的価値
が高まることも期待しいます。

なんとかして、いつまでも残されるようにインターネットを通して活動
していきたいと感じでいます。




posted by ピアノ at 10:55| Comment(0) | 大雄山荘 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大雄山荘(雄山荘)の成り立ち

梅祭りでにぎわう小田原・下曽我にあるこの家は、今では太宰治の名作『斜陽』の家として
世に知られている。どんなにそれが近代建築として価値があるといわれる家であっても、
太宰治が『斜陽』の題材に使わなかったら、たぷんこれほど注目されることもなかったで
あろうし、取り壊される寸前に、九死に一生の命拾いができたとはとても思われない。
大正十四年九月十四日、加来金升(かくきんしょう)氏が神奈川児足柄下郡下曽我村
曽我谷津大木(おおき)の元という地番に六百壱坪の土地を借地することから、この家の
歴史は始まる。大木(たいぼく)の根元の土地とはなんと素敵なことだろう。

加来金升は、明治十八年大分県に生まれ、父政太郎は恵良(えら)家より養子に入り、
母サダは中津の恩田家より嫁している。素封家で、「政太郎さんはカンガルーの靴しか
履かないし、サダさんは、ハトの肉しか食べないそうな」と噂されたという話が残っているように、カンガルーの皮のように軽くてやわらかな靴しか履かず、ハトの肉のようなやわらかな肉しか食べないとの例え話で、その優雅な生活が想像できる。福沢諭吉と同世代の文明開化
に啓蒙された見本のような、大分の一族であったようだ。

妻皓(こう)の父は海軍軍人であったし、妹の夫や親戚には貴族院議員で男爵の爵位を持つ
人あり、海軍軍人あり、郵船全社社長あリ、変わったところではセレベス島で果樹園を成功
させた人もいるが、この人の親は親戚の上の畑家から養子に入っており、上の畑家の人々と
この家の歴史とは深いつながりがある。後にこの家の運命の鍵となる太田静子が住む橋渡し
をした静子の母の弟(『斜陽』の文中で和田の叔父様として登場する人)は、上の畑家から
大和田家に養子に行き、逓信次官や会社社長をした人である。

(中略)

大正十四年は加来金升氏が四十歳になった年で、心身ともに旺盛な時期であり、この頃の彼
はハーレー・ダビッドソンに跨って華々しく人生を駆け巡っていた。大分の彼の母校である東
院内の小学校に講堂を寄付し、奨学金制度を作ったりしたので校庭に胸像があったそうだが、
昭和の初期の事なので現在はどうなっているのかわからない。
出版関係の友人で下曽我出身の佐宗恵輔氏から「親戚の土地で、富士山の絶景や気候風土の温
暖な別荘地として最適な土地が空いている」という話を聞いたのがきっかけとなり、これまでの
建築家志望の夢を実現させる決心をした。母の余命の短さを知って衝撃を受けた時期でもあ
り、母のためにもと、この地に別荘を建てる決心を固めたのであった。

(中略)

父政太郎はすでに亡かったが、母は病床に臥し、余命を医師に宣告されている状態だった。
何とか母にこの風光の美しい別荘で安穏な時間を持ってもらいたいと望んだのだが、残念なこ
とに母に楽しんでもらうことは叶わなかった。
ともかく、写真なりと見て貰いたいと、家の完成とともに撮影したものを、無念の思いを秘
めて小冊子にまとめた。B6判ほどの小さなもので、落ち着きのある茶色の表紙に緑のリボン
で綴じられており、「大雄山荘」と加来氏の墨跡で印してある。


【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】




加来金升氏の母の「親戚には貴族院議員で男爵の爵位を持つ人あり」と、資産家であり名家であることが窺えます。小冊子の内容については、小学館文庫の「斜陽日記」に詳しい説明があるので、ご存知の方も多いと思います。(小学館文庫の「斜陽日記」は、480円で現在でも書店で手に入ります。)



posted by ピアノ at 10:12| Comment(0) | 大雄山荘 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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