2007年05月17日

『斜陽』の子を抱きて5

たのです。死んで行つた方は、ほんとうに美しい、慾
のない方だつたのです。羨しい。私は死ぬのがこわか
つたのです。そのために、死にたいと思つたこともあ
りました。小さい時から・・・。修治さんが、世界の進
歩のためにギロチン台にお立ちになる時には、ついて
行くつもりだつたのです。だのに、神さまは私に、新
しい生命をお與えになりました、今の私には、死ぬこ
とは許されないのです。「斜陽」のラストのかず子の
手紙。あれは私が書いたのではありません。修治さん
が、私とはぼちやん(治子)に残していつた遺書なの
です。貴族の娘。いいえ私は貴族の娘ではありません。
けれどあの方は魂の貴族を見出したかつたのです。お
母さまの中に、私の中に・・・。そして直治という弟に
託した御自分自身のこころの中にも・・・。女は顔の美
しさより魂の美しさ。ともいわれました。
修治さんがなくなられてから三日ほどして最後の日
に山崎さんが書かれたお手紙が届きました。
わたくしはあなたと修治さんのためにいろいろお
盡しいたしました。でも、もうわたくしには出来
ません。
わたくしは修治さんが好きですから御一緒に死に
ます。
と書いてありました。嚴しい、きおいたつたお手紙。
大好きなお方と御一緒に死ぬのです。死の瞬間。もつ
となごやかであつてほしかつたと淋しく思いました。
修治さんのお姿に、それがどんなに醜く変つていよ
うとも、最後のお別れに行きたいと思いました。はぼ
ちやんを抱いて・・・。でもそれさえも私の健康が許し
ませんでした。お葬式の日、朝露にぬれたお庭のお花
を澤山切つて、涙の雫といつしよに弟に持つていつて
もらいました。下曾我の花を、何よりも喜んでいただ
けると思つたからです。山崎さんの御霊前にも半分上
げてくれるよう、たのみました。
不道徳な恋。誰にもわかつてもらえない。親戚の人
たちからも、あきれられ、見放されてしまつたようで
す。でも不思議に私の心は静かです。かず子の最後の
手紙を、実感をもつて、自分の言葉とすることの喜び
を知りました。
水のような氣持。鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧
かれ、というイエスの言葉をそのまま生きようと思う
のです。

【太宰治全集10 小説9 筑摩書房】

※婦人公論 昭23年8月で発表


ラベル:太田静子
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『斜陽』の子を抱きて4

笑われてよ。ね。泣かないで。」と、心の中で、言つ
ているうちに、しず子の眼にも涙がいつぱいたまりま
した。

それからしばらくじつとしていました。四月。五月。
五月の末に、上京いたしました。赤ちやんの相談に。
三鷹へ行き、お葉書にあつたウナギ屋さんで待つてい
ると、問もなく修治さんがいらつしやいました。だけ
ど、修治さんは今までと違つていました。穏やかな、
優しい、あの眼ざしを待ち望んで來た私に、あの優し
い眼ざしはして下さらなかつたのです。「しず子をお
きらいになつたの?」私のことなどもう考えては下さ
らない。フトそう恩いました。
夜になつて、いつの間にか一座は十人余りになり、
お酒とウイスキーとビールが澤山並んで、「ギロチン、
ギロチン、シュル、シュル、シュ」だつたのです。
「千草」のマダムの他に、眼鏡をかけた女の方がいら
つしやいました。山崎富榮さんだつたのです。
その夜、私は櫻井さんという女の書家のアトリエで
泊めていただきました。修治さんも、ご一緒に。私は修
治さんがお家へお帰りにならないのが悲しくて(罪恐
しくて)涙が出て明け方まで眠れませんでした。園子
ちやんに、「ね、下曾我へおかえりなさい」つて、言
われている夢を見てました。眼がさめたら、アトリエ
の長椅子の上に寝ていたのです。修治さんは板の間に
毛布を被つてねていらつしやいました。女主人は向う
の長イスの上に。
私はいろいろお話しなけれぱならなかつたのです。
だけど、とうとう二人きりになれないで、私は半泣き
でお別れして、下曾我へ帰つてきました。それ以来、
私はあの方にお会いしていません。その時、修治さん
が酔つて書かれた油絵の私の顔が、終りの日のかたみ
となりました。
十一月の半ばに私の大事な赤ちやんが生れました。
女の子でした。私たちがねがつていた通りの・・・。可
愛いい花、黄昏の碧玉。治子つていう名は修治さんが
御自分のお名前から一字をとつてつけて下さいました。

  太田治子

  この子は私の可愛いい子で、父をいつまでも誇つ
  て、すこやかに育つことを念じている。

  十一月十二日 太宰治

治子のお父さまは、治子の誕生を祝して、この言葉
を下さつたまま、ついにこの子を見ずに逝つてしまい
ました。
ゆめ。
上水の櫻堤を修治さんがドンドン歩いて行く。呼び
ながら、追つて行つて、姿を見失つて、私ひとりが鳥
になつて空に舞いあがりました。室を飛ぶのがどうし
ても苦しくて、森の上から堕ちて、また堤に立つて泣
いていて、目がさめました。それから蛇に足をかまれ
る夢も見ました。「斜陽」を通じて、死の使者のよう
なあの蛇が・・・。
修治さんの家出が知らされた日、私はひそかに心に
期するものがありました。ちようどその前日、國府津
まで全集を買いに行つて、その二枚のお写真を切り抜
いて、白い額に入れたところでした。あの方を愛して
生きてゆこうとする者にとつては、いつもこの日の覚
悟がなくてはならなかつたのです。奥様もきつとそう。
そして山崎さんも。
山崎さんは一年あまり前から、いつも修治さんと私
との問に入つておられました。私からのお手紙は山崎
さんが見ていましたし、修治さんからのお手紙はたい
てい山崎さんの代筆でした。修治さんと私とは會うこ
ともどうすることも許されなかつたのです。そして今、
私とはぼちやん(治子)とは置いてきぼりにされまし
た。でも、私はうらまない。誰をも・・・。修治さんも、
奥さまも、そして山崎富榮さんをも。
「人間失格」を読みました。こわい。「弱さの美しさ」
というより、「ゲヘナの火にて焼かれる苦しみ」を感
じとりました。ここまで來てしまつたと思い。八年以
上もあの方と御一緒に成長してきたのですもの。ヒラ
リと身をかわせられますかどうか。鉛のように重く、
わだかまりが心に残りました。
死はいつも修治さんの身近にあつたのです。でも私
は死ねなかつた。赤ちやん。いいえ、私は生きたかつ
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『斜陽』の子を抱きて3

とおつしやつていました。それから、アランやヴアレ
リイのしやれたお話。それから園子ちやんのこと。
「ね。そんなにウイスキィを澤山召上つてはだめ」幾
度も言おうとして言えませんでした。なんだか悲しく
て、言えば涙がこぼれそうで・・・。午前中ずつとウイ
スキィのまないでいらつしやるとお顔が蒼くなりまし
た。どうかして廿美なお酒にしてあげられないものか
と私は思いました。でも一週間ばかり前に読んだ
「父」という短篇の「父はどこかで、義のために遊ん
でいる。地獄の思いで遊んでいる。」という一節が浮
んできて、思わず胸がいつぱいになるのでした。
「苦しいお酒はイヤ。おいしいお酒でなくちや、飲ん
じや駄目」だけど、そんなことを言うことはあの方に、
しず子のようなお馬鹿さんになつて頂だい、というこ
とと同じなんですもの。いつか、イエスの死にも似て、
むごい運命が、この方にもきつとやつてくる、そんな
豫感が胸をかすめました。
二、三日の豫定がのびて、
の上に原稿用紙をひろげて、
五日目の朝、支那間の机

   斜陽 太宰治

それだけお書きになつて、伊豆へ立たれることになり
ました。私も行きたい。このままお別れするのはイヤ。
でも修治さんにとつて大切なのは小説。私が行つては
思うようにお書きになれないかと思うと、私が行くこ
とは罪悪のように感じました。サタンのささやき。し
ず子は勝ちました。
國府津の駅まで途つてゆき、修治さんは蒼い顔をし
て、沼津行の汽車におのりになりました。私は竿塚へ
行き、場末の劇場にはいり、東海林太郎の唄をききな
がら、涙が出て、涙が出て、仕方がありませんでした。
それからの毎日、私は二階の寝室の扉をあけて、修
治さんのいらつしやる伊豆の方に向つて、声いつぱい、
「修治さん、修治さん。」と呼びました。
箱根の山の山彦が、また「修治さん」を呼び返しま
した。「どうぞ長篇が上手に書けますように。」私は心
から祈りました。
「斜陽」はこうして下曾我の家で生れ、伊豆の長岡の
宿で書きはじめられました。そして、私のおなかには、
斜陽の子が・・・、あの方のあかちやんが、出來たので
す。早春の夕日が二階の寝室に映えて、あかちやんが
出來たのです。あの方はやさしかつた。そして、私は
火のように燃えました。私は赤ちやんが欲しかつたの
です。
私はひそかに所つていました。あの方の赤ちやんが
出來ますようにと。そして、あの方はそのねがいをか
なえて下さいました。
「ね、しいちやん、可愛いい女の児が欲しいんだね。
きつと可愛いい女の子が出來るだろうね。」私はあの
方の言葉を信じました。愛する人の子供を必ず生むこ
とができる。そこには美しい祈りがあります。表面だ
けの夫婦、恋愛のない夫婦、ただあれだけの夫婦の問
に、すばらしい赤ちやんの出來るわけはないと思いま
す。
オリガを大好きだつたチエホフは、「ね、赤ちやん
を産んでおくれ。僕の赤ちやんを産んでおくれ」と叫
んでいます。ニイチェだつて「白分の子供をほしいと
思う女」と言つています。私には修治さんの赤ちやん
が出來ました。
この歎び。歓びが胸の底から湧き出てまいりました。
きつと可愛いい女の赤ちやんだと思いました。
それから一月あまりして修治さんがいらつした時、
支那問の寝イスにおかけになるとすぐ「赤ちやんが出
來ましたの。」と申しました。修治さんはびつくりな
さつたようでした。そして足許に坐つている私に、
「いいよ。いいよ。」とおつしやいました。
その夜ベッドで、
「僕は不幸だ。」とおつしやいました。
「ハムレットなのね。」と少しさびしく私も言いまし
た。
「ハムレット。可愛そうなハムレット。」私は何故と
もなくそう言いました。私の家での、それが最後の夜
でした。
翌日、お帰りになりました。平塚まで途つて行きま
した。平塚駅でおりてプラットホームに立つて、動き
出す汽車の中の修治さんのお顔が、眞赤に見え、涙が
あふれました。「そんな大きい方が、泣くんぢやない。
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『斜陽』の子を抱きて2

なる歓喜とをもつてイエスに仕えたマグダラのマリヤ、
その他のマリヤたちのように、あの方に仕えるのだ。
だからなんにもこわくない。
二十日の午後、電報がまいりました。
駅の建物にもたれて、ふと顔をあげると、あの方が
帽子をかぷつて笑つていらつした。笑顔。あの方のお
顔が蒼白に見えました。でも何ともいえない嬉しそう
な笑顔。駅前の喫茶店へ行つて坐るとすぐ、
「しいちやんの顔を見たとき、すぐにキスしたくなつ
て困つた。」とおつしやいました。リュックの中から
紙につつんだ瓶を出して、「汽車の中でわれ』なかつた
かしら」と見ていらつしやいました。「何?」「サント
リイ」それから今度は「チェスターフィールド」を出
して封を切つて、しず子にも一本下さいました。でも
二人とも吸わないで店を出ました。
下會我の家へ着いたのは夕方でした。臆端に掛けて、
灯もつけず、だまつて坐つていました。
黄昏。静かな黄昏。何んとも言えないいい氣持。ヴ
ェルウエットのよう恋黄昏の國へ吸い込まれて行くよ
うな・・・。
「幸福」
「そう、よかつたね。」そして、抱かれました。
灯をつけて、笑つて、
「紺のお洋服が、よく似合う。牧師さんみたい。」
「ニセ牧師。そうだ、僕はニセ牧師だね。」
「いいえ。遠い外國から帰つていらつした旦那さま。
ね。こうして三年に一度、帰つていらつしやる旦那さ
ま。」
おみやげの眞白いパンにお肉をそえて、ウイスキイ
を頂きました。
「イエスとマリヤのお食事みたいね。」
マルタの妹マリヤ。奥さまはマルタ、そしてしず子
はマリヤ。奥さまには八年前、三鷹のお家で一度か二
度お逢いしただけなのです。その時の印象は、そうね、
花にたとえたら、木蓮かシヤガの花のような方でした。
臭さまのことはただそれだけで、でも、きつと働き者
のマルタのような方だと思つていました。だから、修
治さんには、いつもぽんやりイエスのおそぱにいて、
イエスのお話に耳傾けるマリヤのような女がいりよう
なのだと思つていました。
その夜、弟が寝てしまつてから、マリヤはフランネ
ルの白い寝巻に着更え、足音をしのばせて二階の寝室
へ上つてゆきました。蟻燭の灯で周りを照らしながら
そして一週間、夢のように樂しい日が……生の歓び
にみちあふれた日が-・…
イエスとマリヤo
ノヴエリストと天使。
奥さまのことも、園子ちやん(太宰氏長女)のこと
も、樂しくお話いたしました。どんなことも、しかめ
面でお話することは出来ませんでした。一番樂しい時、
機嫌のいい時、人はどんなことでも、笑つてやつての
けられる。いい御機嫌だつたからばかりではありませ
ん。奥さまのこと、しず子は一度も妬ましく思つたこ
とがありません。何故でしよう。それは、ほんとにし
ず子があの方を愛しているからなんです。今度の山崎
さんのことだつて、ちつとも、粉雲のびとひらほども
妬ましくないんです。
修治さんは、小説のことが八十バーセントだとおつ
しやいました。あとの二十パーセントで静子のことを
想つているんだと。あの幸福な瞬間さえも、私は修治
さんのすべてを私のものにすることはできないのを知
つていました。でも、それで私は幸幅なのです。です
から、このことはいつかは奥様にも分つていただける
と思うのですけれど、私はあの方を奪おうとしたので
はありません。プラス。
そして、あの方の全部の、小説のために・・・。これ
から産み出されようとしている「斜陽」のために・・・。
私は私の大切な日記をお渡しするばかりか、私のすべ
てを捧げなければいられなかつたのです。
修治さんは私をそばからお離しになりませんでした。
誰もいない。誰もいない。二人きり。タ映のお山を、
窓をひらいて眺めました。
「凱旋門」のボワイエとバークマンのように肩をよせ
て。修治さんの後姿は、どこかあのボワイエに似てい
ました。
二人はよくお話をいたしました。子供の時のこと。
津軽のお家のこと。「よつぽど僕、いけない子だつた」
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『斜陽』の子を抱きて

『斜陽』の子を抱きて
太田静子
一番優しかつた方。
あの方が曾我の家へいらつしやる日が近づいていま
した。去年の二月の始めの暖かい朝。あの方のお手紙
を胸に、支那問のイスに坐って「コンプレエ」を読ん
でいました。けれども心が上氣して、二頁半読むとや
めてしまつて、ガラス戸の傍へ行つて、山を眺め、海
を眺め、池の向うの梅を眺め、けれどもちつとも眺め
てなんかいなかつたのです。
二月の二十日頃に、そちらへお伺いいたしま
す。そちらで二、三日あそんで、それから伊豆長
岡温泉へ行き、二、三週間滞在して、あなたの日
記からヒントを得た長篇を書きはじめるつもりで
おります。

最も美しい記念の小説を書くつもりです。 修治

「あの方がいらしたら、今度こそ、しず子は・・・」と
考えていたんです。額の中の「アムールとプシケ」
「プシケを救う愛の神」の二枚の写真を眼をすえて眺
めました。アントニオ・カノヴアの美しい彫刻です。
妻子ある方に身を任すことは恐しいことです。けれ
ども、もう、どうすることも出來なくなつているので
す。八年もかかつて、やつとそこまで來たのですもの。
何も彼も、あの方に捧げて、そして、失つたら、それ
で氣が濟む。そしたら、伯母さま方のすすめられる見
も知らぬ方のところへ嫁ぐことだつて出來るんだ。こ
のままで、修治さんに別れることはとても出來ない。
でも、駄目次々。結婚を考えない恋、そんなことして
はいけない。亡くなつたお父さまやお母さまが見てい
らつしやる。
あらざらんこの世の外の思ひ出に
今ひと度の逢ふこともがな

もう一度お逢いして、そして別れよう。日記だけお
渡しして別れよう・・・。優しい優しいあの方のお顔を
かき消して、再婚しよう。そしてしず子をもらつてや
ろうとおつしやる方のところへ嫁つて、もう二度とあ
の方のことは考えないで死んじやう。そこまで幾度考
えたかわかりません。八年前、はじめての結婚にやぶ
れた私が、ある文學上の會合であの方にお目にかかり、
それから時々お會いして、御一締にお茶をのんだり、
映画をみたり、文學についてのいろいろな御相談にの
つていただいたりして--、そのあいだにはいろいろ
なことがあつたのです。戦争、私の第二の結婚、夫の
戦死、疎開、お母さまの死、そして、私はいま静かな
曾我の山の別荘に弟と二人で住んでいる。
はじめは恋ではなかつた。修治さんは「新ハムレツ
ト」を書き上げ、私はあの作品が好きでした。王妃の
言葉に心をひかれ、そのことをお話したりした。でも、
いつか恋のひめごとが私の心に育てられていたのです。
お母さまが亡くなつて、急に心の張りが抜けた時に、
、、、、
私のひめごとはセキを切つてあふれるばかりに渦巻き
はじめてきました。
こんなユメを見ました。
場所は何虚かの応接間で、修治さんと向ひ合つて何
かしら樂しくお話していました。何時の問にか二人は
長いイスに並んで坐つていました。私が笑いながら修
治さんのセエタをつまんでいると、亡くなつたお母さ
まがスッと出ていらつして、
「奥さまやお子さまがいらつしやるお方に、そんなこ
とをしてはいけません。」とおつしやいました。しず
子は振り向いて、坐つたまま、
「だつて、好きなんですもの。」と申しました。する
とお母さまは、
「ああ、そうだつたの。好きだつたの。ごめんなさ
い。」とおつしやつて、そのまま消えておしまいにな
りました。
この夢に力を得たのです。そして、坂道を石がころ
がるように、あの方のおいでを待つたのです。あの方
は、しず子の日記を見て、長篇をお書きになるのです。

「最も美しい(かなしい)記念の小説」
心がおどる。私は最も美しいノヴエリストを助ける
天使なのかも知れない、と思いました。懼れと、大い
posted by ピアノ at 14:39| Comment(0) | 『斜陽』の子を抱きて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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