2012年01月22日

太宰治『生まれてすみません』

この1文が盗用であったことさえも
一般大衆には知られていなかったようで
(出版社が露出を抑えていた?)
2010年に読売新聞のコラムで
取り上げられていることで初めて知った
人も多いことがわかります。

以前、このブログで太田治子さんが
どのように金子みすゞさんをとらえて
いるのか知りたい...と私は書きました。
あれからしばらく経過しまして、
講演会のレビューがいくつかのブログなどで
記載していただけているようですので
引用させていただきます。

『治子さんは「生まれてすみません」の引用元に
ついても、批判的に話していた。』と発言して
いたとの記述を見つけました。

それにしても、金子みすゞや寺内寿太郎など
弱者に対して皆さん優しいので、
読んでいて安心します。

ただ、太田静子さんの実家は九州の大名の
御典医の家系、太宰治は青森県の大地主で
多額納税により貴族院議員まで登り詰めた
家系です。そういう血筋を引く太田治子さん
ならではの見解も欲しい気がします。

金子みすゞがあの時代に「みんなちがって
みんないい」と「わたしと小鳥とすずと」で
詠んだことは素晴らしいし、せちがらい世の中
になって、その詩が発掘されて日本中の
人々の心を打ったことは非常にセンセーショナル
であったと思います。

しかし、そのフレーズに甘えてしまって
働けるのに働かない人々まで生み出して
しまったこの10年の日本というものは
静子さんが苦労した時代とは別のもにに
なりつつあるようにも思えてしまいます。
これが進行しても、文学や美術を創造したり
より深く酔いしれる国になりさえすれば良いの
ですが、良いものをもともと知らない
先祖を持つ人々が国の舵を切っているのが
現状の日本です。

そのうち日本の国文学に価値を見いだせない
人々が大多数を占める国になりそうにも
思います。





読書散歩
2010年03月14日
■[dazai] 私の本について話そう『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』太田治子さん講演会
神奈川近代文学館にて、太田治子さんの著書『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』についての講演会。太宰の戦争責任や現代の政治社会についての話題も交えて、治子さんらしく、楽しい講演会になった。
『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』は、現在、第三版まで版を重ねていて、前作の筑摩書房から出版された林芙美子についての作品『石の花―林芙美子の真実』は、やっと重版されたところなので、太宰治と林芙美子という作家の温度差を感じた、と話された。『石の花』を出版した時には、神奈川近代文学館からも、講演の声はかからず・・と、笑っていた。林芙美子は太宰に好意を持っていたそうで、太宰の死後、林芙美子が下曽我まで来て、太田さん母子二人を引き取るという提案があったそうだが、静子さんは断ったという。治子さんは、「もしもそうなっていたら、私は林芙美子の娘になっていたのです」と笑った。母の手ひとつで育てられて良かったなと思う、と。
下曽我の家が焼失したことにも触れ、治子さんが3歳10ヶ月まで暮らしたその土地の風景は今も変わらず、梅の花が咲き、みかん畑があり、富士山や相模湾が眺められ、金時山の山並みの美しい、素敵なところで自分は生まれたのだなと思うとおっしゃった。
『石の花』では3年かけて林芙美子を、 『明るい方へ』では、2年かけて太宰と静子さんを、冷静客観に書ききったという自負があると、講演を通して、何度か繰り返しておられた。両親のことは、こ れまで苦しくて書けないところがあったけれども、太宰の作品を読んで感じる共感と反発のうち、共感の方が多くなったら、太宰を書けなくなるのではないかと いう思いがあったそうだ。著作を読んだ老齢の女性から、温かい手紙をもらったが、一箇所「あなたの立場なら、お父様に恨みがあるのもわかりますが」と書か れていたことに、それは違うのだ、と強く感じたという。恨みなどではなく、治子さんは「太宰の真実を書きたかった」のだと。
太宰の『虚構の彷徨』を読んだ静子さんが、太宰に手紙を送ったのが、二人の知り合うきっかけとなった。そして太宰が遊びに来ませんか、と静子 さんに返事を書き、その後太宰の方から、静子さんを呼び出す電報を送っている。治子さんは、「太宰はおそらく、女性としての太田静子だけでなく、彼女の持 つ文学の才能を見抜き、この女性はいつか使いものになるなと考えたのでしょう、まさに色と欲ですね」と分析して笑った。治子さんを産んだ後、静子さんは奥 様に申し訳ないと何度も言っていたそうだ。治子さんはしかし、それは運命だったといい、人道には背いていても、天道には背いていない、と。
治子さんは、静子さんが太宰の唯一の女弟子であると話し、『斜陽』の8割が、静子さんの日記を引用されていることについて、立場が逆であれ ば、盗作とも言われかねないことだが、静子さんは、太宰をうらむ気持ちはなく、むしろ嬉しかったという。太宰からご自分の日記を求められた時に悲しい思い をした静子さんは、ご自身を『斜陽』のモデルというよりも、『斜陽』という作品のアシスタントだったと考えていたそうだ。治子さんは「生まれてすみませ ん」の引用元についても、批判的に話していた。(この件について私は、寺山的な言葉のコラージュであり、盗用に当たらないと思っていますが)
吉本隆明さ んが太宰の全ての作品が好きだと話していることについて、治子さんは、本当ですか、と言いたくなるそうだ。太宰の差別意識やエリート意識、思い上がったと ころがあからさまに出ている文章は嫌いで、太宰作品の暗さや重さを「人を暗い気持ちにさせないでくださいと思う」といい、心安らぐ文章が好きだという。太 宰が「文豪」といわれることについて、「文豪といえば、シェークスピア、ドストエフスキー、トルストイですよねぇ。太宰ではない・・」と言い、太宰を「不良少年の作家」であり、時として胸にぐっとくる真実もある、と評した。『人間失格』の最後に「神様みたいないい子でした」という一節があるが、「あの人が神様なら、私達はみんな神様です」と言って笑っていた。
母、静子さんについて、賢くはないかもしれないけれど、まっすぐな心を持ち、最高の母親だといい、ご自分は静子さんのような人と結婚したかっ たそうだ。生前の静子さんにそう話すと、静子さんは「あなたのような人はイヤだ」と答えたという。誰しも光と影の部分があるが、治子さんは、母方の家の自 由で個人主義的な気風が好きで、ご自分は太宰よりも暢気で、人が好きでよかったと思う、と。
自己中心的で自己愛の強い太宰は、同時にそれを自己嫌悪する自己矛盾を抱えていて、自己矛盾のきわめて少ない、無邪気な自由主義者の太田静子にひかれたのだろうと分析した。「太宰治は カメレオンでした」と言い、また人を愛したいラブコールを持っていた、とも。太宰の欠点は、治子さん自身に通じるところもあり、太宰を書くことは、自分自 身の欠点を書くことにもなるが、ご自身は、あそこまで極端ではない、とおっしゃった。今、とても幸福で、自分を生んでくれた母と、生んでいいと言った父に 対して、心から感謝の気持ちがあり、生まれてきて本当によかったと心から思うと話した。
静子さんの苦労を間近で見てきたので、母親にひいきするところがあって当然、とおっしゃり、それでも、「太宰を好きなんです」「最終的には尊 敬している」と話していた。『斜陽』の最後のかず子の手紙について、「今の時代につながる、価値の多様化があるのではないか」と話し、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」の世界観を求めていきたいと講演を結んだ。
講演後のサイン会。私のことを覚えていてくださって、「この本すごく面白かったです!」とお伝えすると、付箋が沢山ついた本を見て、「まぁ!熟読してくださって・・」とおっしゃった。下曽我の家が焼けた翌日に訪れた話をしたら、治子さんは、焼けた後、まだ訪れたことがなく、「私の代わりにあなたが行ってくださって・・」と言っていらした。家の入口の石の羊が2匹、残っていたことを話した。
4月4日、ちひろ美術館にて、太田治子さんの「ちひろとみすゞ 」講演会。こちらも行きたいなぁ。
(読書散歩 http://d.hatena.ne.jp/witmiffy/20100314





2010/04/22
「生まれて、すみません」太宰治の名文は、盗作でした。

「生まれて、すみません」

太宰治の短編『二十世紀旗手』にエピグラム(警句)と
して使われている一文です。
太宰の文章のなかでも特に有名な一文であり、
同名の太宰治名言・名文集や
文字がプリントされたTシャツなども販売されています。
僕も、いわゆる思春期の頃にはよくこの一文を思い出し、
陰鬱な想いに落ち込んだり、
将来に漠々たる不安を感じていたものです。
しかし、昨日の読売新聞朝刊の囲みコラムを
読んでショックを受けました。
あの一文はパクリ、だったのです。
オリジナルは寺内寿太郎という詩人でした。
新聞記事とネット検索で調べたことを要約すると以下のようになります。

寺内 寿太郎(生没年不詳)は昭和初期の詩人。
多感な人物だったようで自殺も企てている。
その彼が完成させた『遺言』(かきおき)というタイトルの
詩稿のなかに「生まれて、すみません」も含まれていた。
『遺言』は寺内のいとこで評論家の山岸外史を通じて、
太宰の目にとまり、太宰は短篇「二十世紀旗手」の冒頭に剽窃する。
作品を黙って使われた寺内は
「生命を盗られたようなもの」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、
盗作であることを公表しようとしたが、山岸がなだめ自重させた。
その後、寺内は消息不明となり世間から顧みられることもなかったが、
後年、山岸外史が事実を明らかにした。
しかし、寺内寿太郎がまったくの無名であったこともあり、
「生まれて、すみません」は太宰治の文学、生きざま死にざまを
表すキーワードとして、後世に読み継がれている。

う〜ん、何だか青春の1ページにグレイな染みがついたような気分です
(OTTAVA清水 清さん http://blog.ottava.jp/ottava_moderato/2010/04/post-f2f7.html



posted by ピアノ at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月22日

太宰治の専門ブログ「太宰府」が消えた

・・・かも知れないので、念のためにコピー
させていただきました。かならずしも私の考えと
一致しませんが、わかりやすい考察だと思います。
復活して欲しいです。


太宰府

太宰治について調べたこと考えたことあれこれ

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2008-11-23
山崎富栄と青酸カリ
山崎富栄が青酸カリをもって太宰をおどしたという話は再三語られていることである。
野原一夫は、昭和23年の年が明けたころ、太宰からそれを聞いている。

「先生、治子ちゃんの顔を見に下曽我へ行かれたらどうですか」
 虚をつかれたふうに太宰さんはこちらを振り向いた。
「お会いになりたいでしょう。治子ちゃんに」
 太宰さんは座って、
「そりゃあ、会いたいね。筑摩の古田さんもそう言うんだよ。行って、子どもを抱いてこいってね」
「ぜひ、そうしたらいいです」
 太宰さんは、すこし苦しそうな顔をした。
「奥名さんには黙っていればいいじゃないですか。筑摩書房でも新潮社でも、仕事で2,3日カンヅメになるっておっしゃったらどうですか。口裏はあわせます」
 太宰さんはそれには答えず、声をひそめて
「青酸カリを持ってるっていうんだ。いや、ほんとうらしい。作り噺のできる女ではないからね。俺をおどすんだよ。へんなことをしたら薬をのみます、えらく厳粛な顔をしてそう言うんだ。こんな狭い部屋のどこにかくしてあるのかね。俺も時々、いない時にあちこち家捜ししてみるんだが、どうしても発見できない。よほど巧妙にかくしてあるにちがいない」

 この一文を読んで、私はむしろ野原氏のデリカシーを疑うのであるがどうだろうか。愛人に生ませた子供に会いに行けと、なぜ編集者がこうも熱心に勧めるのだろう。プライバシーの問題である。
 昭和23年1月の富栄の日記から太田静子に関する記述を見ると、以前も挙げた

「読んでごらん」と仰言ってみせて下さる。
「今までの中で一番下手なお便りですね」と言ったら、
「うん、一番ひどいよ。自惚れすぎるよ。斜陽の和子が自分だと思ってるんだなあ。面倒くさくなっちゃったよ」
「二人で、何んとかしてゆきましょう」

 という会話が出てくる。1月10日の日記である。1月16日の日記にはその返信として太田静子の弟に宛てた手紙の全文が記されているが、その中に

先日、姉上様よりお便りの、お金のことにつきましては、依頼したおひとに、あちこち調達させていられますから、もう少しの間お待ちくださいますように、太田様より姉上様へおつたえくださいますようお願いいたします。よろしくおねがいいたします。

とあるので、静子からの手紙がお金の催促であったことがわかる。そしてこのときから富栄は、自分の貯金から崩して毎月一万円を静子に送らなければならなくなるのだ。あとすこしで銀座に美容院が再建できるといわれた富栄の貯金は、20万円であった。

 日記にある会話も、文面も相当に苦しい。静子からの手紙が届いた翌日11日には、太宰が

「僕、本当に、死ぬよ」

 と富栄に言っている。
 その状況で、太宰は野原に下曽我へ行けと薦められたのである。野原にしてみれば好意であっただろう。野原は太宰に逃げ場ななくなるまで「助け舟」を出している。確かに富栄は太宰が静子に会いに行ったら死ぬと、そのくらいのことは言ったかもしれない。女であれば言うだろう。しかし、太宰が野原にこれを言ったのは、野原の「好意」を体裁よく断るだめだったと考えるのは不自然だろうか。
 また新潮社の野平健一も太宰から「青酸カリを探してくれ」と頼まれている。こちらはその二ヵ月後の昭和23年3月と野平は書いているが、「如是我聞」第一回の口述筆記の日のことであるかが2月27日である。しかも同じ日、太宰は野平の前で富栄とキスをしたという。それを野平は

二人の結びつきに就いて、私がいつまでも”そんなことはないだろう”という疑わしい顔つきをしているから、その疑いをはらすために、してみせたのだと、そのとき太宰さんは説明した。

 と書いており、そのあと、富栄が買い物にいった隙に

「ノヒラくん、この部屋のどこかに青酸カリが隠してあるんだ。探し出してくれよ」
「別れ話になったら、玉川上水に飛び込むっておどかすんだねえ」

 と言ったという。
 これは私の推測であるが、おそらく野平は、野原と同じように太宰に何か「好意」をはたらいたのではないだろうか。治子のことについて野平は知らなかったようであるから、あるいは、何か、予防策として、太宰は、それをしたのではないだろうか。
「人間失格」を書くために熱海へ行ってまもなくの3月9日、太宰と富栄は静子のことでもめている。

伊豆の方(註:静子)に、ここに来てもらって話をつけようかと思う、と仰言るので、背筋がすうっと寒くなって、力が抜けて、少しふるえ出してしまったけど、一度はは逢って話さなければならないと仰言っていられたので同意したことから、波紋を招いて、昨夜(8日夜)は一晩中二人共うつらうつらしたりして、語り明かす。お互いに思いやりすぎて、時々こうしたことが起こる。
 どうしても別離など出来ない私達のこころ、一層愛情を深め、信頼を高めて生きてゆこうと暁を迎える。

 お互いを思いやりすぎて、ということであるから、太宰は富栄が送金していることが苦しかったということであろうか。子供がいるのでけじめをつけようという話ではなかっただろうし、富栄を同席させることにしてあるので逢いたいという話でもなかっただろう。
 この熱海行きは野平との話にも出ていた筑摩の古田が行く道に同行している。古田は8日に帰っているが、おそらく、太宰は古田にまた治子に会いに行くようにすすめられてもいたのだろう。そののち5月26日の日記にも古田が治子に会いに行くようすすめているとあるので、治子のことを知っているものは太宰に逢いにいくようにせめたてていたのだろう。当時太宰は、文壇から孤立もしていたし、そんな「好意」にも囲まれていた。
 「如是我聞」口述筆記から数日後、太宰の熱海行の直前、野平は妻を連れて太宰を訪ねているが、その日の富栄の日記は思わせぶりである。

 三月三日
 野平さん御夫婦が、太宰さんと御一緒にお昼頃おいでになった。毎日新聞の平岡様と古谷さんが午後おいでになる。
(お友達としての今の私に、何かを与えることの出来る人は、何かを学ぶことの出来る人は、加藤さんと久我さんになってきているようだ)
 ***
 およそ人間のうちで最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間外れにされたのである。どういう苦しめ方が、僕の敏感な魂に最も残酷であるかと、彼等はその憎悪の極をつくして考えめぐらしたのだ。

 また、井伏鱒二「をんなごころ」には「千草」の女将増田静江と井伏との会話の中でそれが出てくる。しかし、増田静江自身の証言では私はまだ見ていない。本当に増田静江がそれを言っていたとしても、全幅の信頼を置くことができないのは昨日書いたとおりである。
 山崎富栄が本当に青酸カリを持っていたかどうかはさだかではない。日記には確かに「薬は青いトランクの中にあります」と書いてあるが、自殺にあたってそれは使われなかった。太宰と富栄が玉川上水に身を投げたとき、青酸カリを飲んでいたのではないか、それが飲み水に混じってはいないかと帝都は震撼したが、水から青酸カリは検出されず、遺体にも青酸反応はなかった。青酸カリを本当に持っていたなら、溺死よりずっと楽に死ぬことのできるそちらを使ったのではないだろうか。しかしこれは、私であればそうする、という憶測にすぎない。

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2008-11-23
山崎富栄への嫉妬
山崎富栄は文壇史上まれに見る憎しみを受け、悪女の烙印を押された女性である。昭和23年6月13日の情死事件以来、彼女を悪しざまに言った文士はそれこそ数え切れないであろう。それがいつにはじまったものか、といえば、先日も書いたように事件の翌月から既に亀井勝一郎や坂口安吾によっておこなわれているのであるが、富栄への憎しみは、太宰と富栄の遺体が引き上げられたその日から既にはじまっている。太宰の遺体はすぐに棺に入れられたが、富栄の遺体は筵をかぶせられたまま、降りしきる雨のなか昼近くまで放置された。また、引き上げられてすぐ三人の編集者が二人を結ぶ紐を切ったことが編集者野原一夫が著書「回想太宰治」のなかで述べているが、そのときの空気、心境をこのように述懐している。

紐で結ばれている太宰さんの姿を人目に曝したくないという気持が、咄嗟に働いたのだろう。おおむねの新聞は、太宰治の死を”情死”として書き立てていた。その無智で卑属な世間の目から太宰治を守るためには、紐は切られねばならなかった。あの異常な状況のなかで、咄嗟にその判断がひらめいたのだろう。またあるいは、そのときの私たちには、富栄さんへの憎しみたあったかもしれない。太宰さんを奪られてしまったという憎しみが。紐でなど結ばせておくものか、そんな怒りにも似た気持ちも、なかったとはいえない。

 野原一夫は、太宰が死んだら自分も死ぬので棺に写真を入れてほしいと頼まれて、一途な富栄がいじらしくなり、

「みんなでやってあげますよ。比翼塚だって立ててあげられるかもしれない」

 と彼女に言ったエピソードを同書の中に書いてる。その野原さえ、この事件にあたって富栄を憎んだ。太宰を訪ねたら富栄に追い払われたりした編集者やファンたちであればなおさらであろう。

 野原だけではない。太宰に仕事部屋を提供していた「千草」の女将増田静江も、富栄に関して、

「正直言いますと、私でさえ、太宰さんが山崎さんの方へ行かれてしまった後、変に寂しいような、焼餅を焼いたみたいな山崎さんが憎たらしい気持にさせられたものです」

 と、憎しみがあったことを回想している。

 その増田静江による太宰と富栄の関係の証言は興味深い。

これは私の勝手な憶測もまじっては居りますが、恐らくあの方は、山崎さんの辺り構わないむき出しになった愛情にいくらか辟易なさって居られたのではないでしょうか。下連雀のお家に帰られることも少なくなって、はなはだしく健康も害されて、普通の人ではちょっと想像もつかない生活の中で、太宰さんの本当のお友達が気遣われていらしたように、太宰さんも出来ることなら山崎さんから離れたいお気持ちは確かにあったと、私は今でもそう信じて居ります。

 けれども、それは太宰さんにはどうしたってお出来にならないことでした。

 この証言は、「勝手な憶測」「ではないでしょうか」「そう信じております」など、文節すべてが増田静江の推理であることを示しており、事実として語られているものを挙げると

「山崎さんの辺り構わないむき出しになった愛情」

「下連雀のお家に帰られることも少なくなって」

「はなはだしく健康も害されて」

「太宰さんの本当のお友達が気遣われていらした」

 と、「太宰が辟易していた」という結論に結びつく証拠となりうるものが何もない。さらに「山崎さんの辺り構わないむき出しになた愛情」が何を指しているのかを見てみると、

編集者の方、出版社の方、お友達や若い人たち、太宰さんを訪ねてみえられるお客さんの数は毎日大変なもので、私など、作家という仕事はこんなに人に追い回されなければならないのか、と呆れたものである。私たちまで応接にいとまのない有様で、お断りをいうのに骨を折りました。山崎さんは生一本な人でしたので、女の人なら大抵の方がそうなのではないかと思いますが、そんな阿修羅とでも形容したい中で、尚、太宰さんを独占してしまいたかったのではないでしょうか。
 周囲を顧る余裕などなく、ただひたむきな愛情を太宰さんに注ぎ山崎さんのすべてを傾けていかれたのではないでしょうか。それが結局は、太宰さんがお友達と疎遠になって行くその原因になったと思います。
 階下の部屋で、太宰さんと呑んで居られてた3,4人のお客さんが、太宰さんに向かって直に山崎さんの態度を罵るのを耳にしたことがあります。

 「お断り」は増田静江も言っていることなのに、富栄がいうと「独占欲」になるのである。嫉妬深かったのは、富栄ではなくむしろ周囲の人々であったと私は結論している。増田静江は

 太宰さんは、ふと哀しそうな顔をなさって
「あのひともすっかり嫌われてしまったな」
 と洩らされたことがございます。

 とも証言している。事実と推測を書き分けていても、嫉妬という悪意があると、それが空気とともに伝わり、その空気そのものが伝言ゲームの中で事実になってゆく。富栄の人間像はそうしてつくられていったのである。

 富栄は昭和23年3月3日の日記に、ルソー「孤独な散歩者の夢想」の冒頭を引用して書いている。

 およそ人間のうちで最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間外れにされたのである。どういう苦しめ方が、僕の敏感な魂に最も残酷であるかと、彼等はその憎悪の極をつくして考えめぐらしたのだ。

 これが富栄自身の心境であるのか、太宰の境遇がそう見えたのかはわからないが、太宰を独占してふたりきりの世界に生きたいと願う女の言葉としてはありえないものであるように私は思うのである。

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2008-11-23
山崎富栄と太田静子
 太田静子は「斜陽」のモデルとして知られた女性である。「斜陽」は、その前半はほとんどといっていいほど静子の日記の引用によってできている。
 まずその静子と太宰との関係を追ってみると、太宰と太田静子の出会いは昭和16年9月上旬、静子がファンのひとりとして友人二人と太宰を訪ねたのがはじまりである。太田静子はそのとき28歳、一度結婚して子供を産んだが一ヶ月で死なれ、そののち離婚して、以来文学を勉強していた。まったくの素人ではない。21歳のときには短歌集を出版したりもしている。太宰のもとへ、娘の死を題材にした小説を持ち込んだ。その時点で太宰は静子に日記を書くよう勧めているから、最初から彼女に何か、題材になるものを感じていたのだろう。日米開戦の前夜、狂騒の時代にあって、何も主張せずロマンチックな夢の中に生きているような静子は、あるいは、太宰には奇跡のような存在に見えていたかもしれない。しかし静子は、太宰に依存してゆく。危機感を感じたか、太宰は弟子の堤重久に静子を紹介するが、叶わず、静子はますます太宰にのめりこみ、戦争が終わると、静子はやがて「太宰の赤ちゃんが欲しい」と手紙に書き送ってくるまでになる。それに対する太宰の返事は苦しい。

 拝復 
 静夫君も、そろそろ御くるしくなった御様子、それではなんにもならない。
 かえって心の落ち着くコイ。
 憩いの思い。
 なんにも気取らず、はにかまず、おびえない仲。
 そんなものでなくちゃ、イミナイと思う。
 こんな、イヤな、オッソロシイ現実の中の、わずかな、やっと見つけた憩いの草原。
 お互いのために、そんなものが出来たらと思っているのです。 
 私のほうは、たいてい大丈夫のつもりです。
 私はうちの者どもを大好きですが、でも、それはまた違うんです。
 やっぱり、これは、逢って話してみなければ、いけませんね。
 よくお考えになってください。
 私はあなた次第です。(赤ちゃんのことも)
 あなたの心がそのとおりに映る鏡です。
 虹あるいは霧の影法師

 これを書いた時点で、「斜陽」の構想は決定している。戦時中静子に小田静夫と名乗らせ文通をしながら、伝わってくる日記の内容に思うところがあったのだろう。
 太宰に太田静子に対する恋愛感情があったかどうか、私には察することができない。日記を手に入れるためになだめになだめた様子が伺えるし、静子の存在が本当になぐさめにはなっていたようにも見える。
 昭和22年1月、太宰と会った静子が

「世界の進歩のために、ギロチン台にお立ちになる時は、私もついてゆく」
 と言ったとき、太宰は嬉しそうな顔をしたという。また、その二ヵ月後に静子が懐妊を知らせたときには、

「赤ちゃんが出来たからには、もう一緒には死ねないよ」

 と言ったというから、おそらく、太田静子は太宰の数少ない理解者ではあったのだろうか。ただ、太宰の本当の願いを知っていたら、赤ちゃんが欲しいと言い出すことなどできなかったであろうから、やはりそれは、恋だったのだろう。
 太田静子と山崎富栄は、一度顔を合わせている。昭和22年5月24日、妊娠した静子が弟とともに太宰を訪ねてきたときのことである。その三日前、富栄は太宰と結ばれていた。太宰は静子と話をしようとはせず、反対に富栄はとても機嫌がよかったようで、編集者野原一夫と「ヴィヨンの妻」を語り合い、

 サッちゃん、大いに酔う。

 とその日の日記を結んでいる。当然、太宰と静子の関係は知らない。
 富栄がそれを知ったのは、半年後の11月15日、静子の弟が太宰に認知を迫りに来たときのことである。太宰は、静子との娘に名前をつけ、法的には何の効力もないが、

 証
 太田治子
 この子は私の可愛い子で
 父をいつでも誇って
 育つことを念じている
 昭和二十二年十一月十二日 太宰治

 と書いてそれを渡した。富栄はその席に同席したのである。日付が12日となっているのは、静子が出産した日が12日だったからである。富栄はそのときの苦しさを

 苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが、何処か、遠くの方へと抜き取られてゆくみたいでした。

 と書いている。太宰も苦しかっただろう。太宰も静子の身内に責められ、家族への裏切りを形になしてしまい、富栄すら苦しめているのだ。富栄はそれを承知している。

 私が泣けば、きっとあなたが泣くということは、わかっていたのです。でも泣くまい、そういうことを承知していても、女の心の中の何か別な女の心が泪を湧かせてしまうのです。
 泣いたりして、すみません。

 懸命に耐える富栄は、私にはいじらしくさえ見える。

”子供を産みたい”
”やっぱり、私は敗け”
(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。死にたい位のくやしさで、泪が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に・・)
 救ってください。教えてください。
 主よ、御意ならば我を潔くなし給うを得ん。わが意なり、潔くなれ。

 太宰と一緒に死ぬ役割を負った富栄は、この世に、太宰とともに生み出したものをかたちにして残すことができない。ひきかえ、太田静子は、婚姻外という何の束縛もない関係のなかで、太宰との「作品」を残したのである。太宰と苦悩を共にしているはずの自分ではない、ほかの女性が太宰との作品を残した、だから”敗け”である。これをうらやむことは異常な嫉妬だろうか。しかもそれを富栄は懸命に耐えている。
 太宰は以後、静子からの手紙をすべて富栄に整理させ、静子への返事も富栄に書かせた。それが太宰にできる精一杯のことでもあっただろう。このような状況の中で、太宰の周囲にいるものは治子に会いに行くようにと勧めたりしていたのである。それに対して
「行くと富栄が青酸カリを呑むと脅す」
 と太宰が言ったことは、あるいは事実かもしれないが、口実と考えるのも不自然ではないだろう。
 その後、静子は乳が出なくなり、病を得て、だからといって私生児を産んだからには実家を頼るわけにもいかず、困窮したなか、
「太宰は治子の父親だから三年だけ頼ろう」
 と、太宰に送金の催促をするようになる。太宰の妻は知らないことである。富栄は、自分の貯金を崩してそれを送った。富栄にしてみればたまらないことであっただろう。昭和23年5月26日の日記の言葉は、富栄のヒステリックな性格を物語るエピソードとして「ピカレスク」などにも引用されているが、同じ状況に立たされて微笑んでいられる女性というものが果たしているのだろうか。

 伊豆の方ご病気
 一万円電ガワにて送る
 子供もだんだん大きくなるのに・・
 ゆきづまったら死ね!
 ああ、どうして人は、みな一人一人悲しいものを背負って生まれてきたのでしょう。

 昭和23年は、まだまだ誰もが貧困の中で懸命に生きている時代である。現代よりも貧困も死もずっと身近であったし、富栄も太宰も太宰の妻も茨の道である。インフレも起こり、富栄の貯金も尽きてきていた。そのなかで、富栄から見ればなかば強引に太宰の子供産んで、しかもその送金にたよってこの時代を生きようとする静子の甘さはゆるしがたいものであっただろう。自分の送金が太田母娘の命を握っていることもプレッシャーでもあっただろう。一万円、簡単な金額ではない。ただ、この時期、富栄が精神の均衡を失ってきていたのは確かのようである。これについてはまた書くが、それを差し引いても、富栄の嫉妬が異常なものであるとは私には思えない。
 昭和23年6月16日、太宰と富栄が心中したときの東奥日報に、興味深い記事がある。

 ザラ紙●枚に書いた一通の遺書には
「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり、長居するだけみんなを苦しめ、こちらも苦しい、かんにんして下されたく、子供は凡人にてもおしかりなされまじく・・」
 とあった

 「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり」のくだりは公開されている遺書にはない。非公開の部分であるのか、誤報であるかどうかはわからない。

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2008-11-23
山崎富栄と津島美知子
 山崎富栄が嫉妬深いというイメージは、最初に紹介した瀬戸内晴美「三鷹下連雀」や猪瀬直樹「ピカレスク」などにおいて強調されたことであり、昔からとにかくこれが太宰を死に至らしめたと多くの作家評論家が口にしてきたことである。
 実際、富栄の日記には、太田静子への嫉妬と戦う苦しみがなまなましく書き付けられている。瀬戸内晴美などはそれが太宰を破滅的な生活に追い込んだものとしているわけであるが、果たして富栄の嫉妬が異常なものであったのかを考えてみる。
 私が富栄=情念の女というイメージに首をかしげたのは、富栄の日記に書かれた太宰の妻に対する言葉が、あまりにも慎ましく、嫉妬深いというには程遠いものであったからである。富栄は終始、太宰の妻に対し、申し訳ない気持ちを抱いており、奪うような気持ちも持っていなければ、恨むような気持ちもない。昭和22年12月5日の日記には

「妻や子供と別れて、君と一緒になってみても、周囲からの攻撃は、君を一層苦しい立場にするだろうしなあ」
「いいえ、そんなこと、わたしには出来ません。奥様に申し訳ありません。わたしはこのままの形式でいいのです。本当に、あなたの仰言るように、十年前にお逢いしとうございました」

 という太宰と富栄の会話が残されている。
 富栄が太宰の妻をどのように思っていたかは、遡って昭和22年7月23日の日記に書いてある。

 悪いけど、私も奥様は怖い。初めての日の夜”こわいんだ、僕はこわいんですよ。救ってくれ”と仰言ったお言葉を想い起こす。不幸な家庭。奥様って、女学校の先生のような感じのするお方だと思った。
 御免なさい。奥様。こんな浅ましいことなどして、私は・・・・

 太宰と富栄が出会って三ヵ月後の日記である。結ばれて、一番有頂天になっている時期の女性がこのように恋人の妻に憎しみを向けずにいることに、私はむしろ驚く。この「怖い」という表現であるが、太宰と富栄の場合、太宰の妻が「怖い」という意味ではなく、この妻を裏切っているということが「怖い」ということであると思う。太宰と富栄は、この時点で既に「思想のために共に死ぬ」という約束をしている。不幸な家庭、というのは、太宰の妻を非難した言葉ではなく、これがこれから失われてゆく家庭だからであろう。
 太宰と富栄が一緒に死んだ理由、これは今でもさまざまな説をもって語られる文壇の謎とされている。もちろん、私の考えもその憶測のうちのひとつである。本当のことは誰にもわからない。富栄と太宰も、それを誰にも知られなくてよいと思っていたようである。昭和22年8月22日の日記から引用する。

「先生は近ごろあまり書きすぎますね。自殺するんじゃないかと思うんだ。」
 と北山さん。胸をつかれる。毎日が死との闘争。一字一句が死との闘い。太宰さんを、一面ずつ知ってゆくことは悲しいけれど、近づいてゆく喜びもある。
「貴女このごろ、顔の色がよくありませんね」と野原氏。
 よくありませんとも。死んでしまうまで、誰れにも、何んにも識られたくはない。そしてまだ誰れも、何んにもしらないでいる深い理由を。死んでしまって、誰れにも判らないことだらけ。二人だけで沢山だ。

 この日の日記からも、富栄と太宰の死は意図があるものであることが察せられるのであるが、その意図を推測するにあたり、私は、太宰の文学に見るテーマをもう一度思い出す。それは、太宰の小説がすべて日常を懸命に生きる人の幸せのために書かれたものであったということである。
 太宰は、昭和22年1月、富栄に出会う直前に書いた「ヴィヨンの妻」を皮切りに富栄と共に過ごす生活のなかで「父」「おさん」「桜桃」など、自分の家庭をモデルにした小説を何篇も書くようになっている。夫の放蕩に耐えている妻の姿は、常にけなげである。太宰は自分の妻という実在の人物を

「人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。」

という、人間の理想の具現化として何度も描いた。そして自分を、裏切り者として何度も描いた。「斜陽」において直治が恋した大谷の妻も、読者には太宰の妻津島美知子のイメージがかさねられるように書いてある。
 心中は、それを現実のものとするためのものであったのではないかと私は思うのである。富栄は裏切りのための決定的なアイテムの役割を買って出たのではないだろうか。そして、太宰の妻は、現在なおどの評論を読んでも「賢夫人」と呼ばれ、けなげで、美しい印象を与え続けている。日常を捨てた太宰は死後もさまざまな謗りを受けたが、日常に生きた妻は太宰文学の中でも一番高い場所で輝きを放っている。太宰は、その輝きを、読者たち、これからを生きる人々の希望にしようとしていたのではないだろうか。富栄はそれに賛同し、太宰と共に死んだのだと私は考えている。
 太宰の遺書は、最後の九枚目にこのように書かれている。

 美知様
 お前を
 誰よりも
 愛してゐま
 した

 長部日出雄はそれを富栄がいない隙に書いたものであると推測しているが、私は、富栄は承知していたと考えている。この言葉にいつわりがなかったことも、承知していただろうと考えている。富栄は、けっして異常な嫉妬深さを持っている女性ではない。むしろ、妻のある男性との恋愛に、深い理解と慎み深さを持って臨んだ女性であったのだと私は考えている。

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2008-11-23
山崎富栄とキリスト
 まず、山崎富栄日記の最初の一日を全文書き写す。

三月二十七日
 今野さんの御紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれば、やっぱり特殊階級にあるひとである・・作家という。流説にアブノーマルな作家だとおききしていたけれど、”知らざるを知らずとせよ”の流法で御一緒に箸をとる。”貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。
 初めの頃は、御酒気味な先生のお話を笑いながら聞いていたけれども、たび重ねて御話を伺ううちに、表情、動作のなかから真理の呼び声、叫びのようなものを感じてくるようになった。私達はまだ子供だと、つくづく思う。
 先生は、現在の道徳打破の捨石になる覚悟だと仰言る。また、キリストだとも仰言る。・・「悩み」から何年遠ざかっていただろうか。あの時から続けて勉強し、努力していたら、先生の御話からも、どれほど大切な事柄が学ばれていたかと思うと、悲しい。こうして御話を伺っていても漠然としか理解できないことは、情けない。
 千草で伺った御言葉に涙した夜から、先生の思想と共になら、あの時あの言葉ではないけれども・・「死すとも可なり」という心である。
 聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問に応えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」。「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話した時、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ、そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持がして涙ぐんでしまった。
 戦闘、開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。

 日付は三月二十七日とあるが、この日記は、その少し後、太宰に数回会ったあと太宰に勧められ、太宰に提出することを前提に書かれたものと思われる。場所が「うどん屋」「千草」の二箇所に及んでおり、これだけならばハシゴしたことも考えられるが「たび重ねて御話を聞くうちに」とあり、さらに次回四月三十日の日記では

初めの頃は御一緒に席についていても手持ち無沙汰で、先生のお煙草ばかり喫っていたせいか、大変に数を喫うようになってしまった。

とあり、三月二十七日から四月三十日にかけて、日記に書かれていない日にも数度会っていることが察せられる。ただしその翌年三月二十七日には

「私達夫婦が、はじめてお逢いした
 その一周年記念の日」

 とあるので、三月二十七日が最初の対面日であったことは間違いないだろう。
 さて富栄が聖書に初めて触れたのは、幼稚園でのことである。富栄の通った愛の園幼稚園はキリスト教系だった。次に触れたのはそのずっとのち、語学を学ぶためにYWCAに通った時期で、富栄は、高見澤潤子に師事して聖書と演劇を研究している。日記にある「あの時から続けて勉強し、努力していたら」というのは、高見澤潤子のもとで勉強していたときから、ということであろう。
 幼稚園はキリスト教系であったが、富栄の家はキリスト教ではない。その富栄がYWCAで聖書に触れ、深く共感したのは、美容学校経営者であった父母の教育に打ち込む姿にキリスト教における「奉仕の精神」「隣人愛」につながるものを見たからではないかと思う。富栄の父山崎晴弘は誇り高く愛情の深い教育者で、授業についてゆけない生徒には資格がとれるまで授業料を追加することなく教育し、道具は刃物はドイツ製、櫛は職人の作った最高のものを生徒に買い与え、自分の学校を巣立った生徒がどのような境遇にあっても胸を張って生きてゆけるよう心を砕いて教育にあたっていたという。聖書を深く理解した太宰の言葉が富栄の「一番弱いところ、真綿でそっと包んでおいたもの」に触れたというのは、そうした父母に育てられた、一番核心の部分「奉仕への願い」に触れたということではないだろうかと想像する。
 たとえば猪瀬直樹の「ピカレスク」では、富栄と初めてあったときの太宰が

「預言者故郷に容れられずって知っているか、キリストだよ、キリスト。僕は生まれ故郷にも、わが家庭にも容れられずだ。」

 といつもの軽口を叩いたとされ、それを富栄が真に受けた、とされている。どの本を読んでも大体似たような、富栄ばかりが真に受けたことのように書かれているが、私は首をかしげる。富栄は聖書を本格的に勉強し、聖書の言葉を、と問いかけられて、「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」とすらすら口に出すことのできる女性である。しかも、その師は高見澤潤子である。もし太宰の言ったことががそうした軽口であれば、富栄はたちまち太宰を軽蔑しただろう。ましてや、自らキリストを名乗れば、怒りさえおぼえるだろう。しかし、富栄は、太宰との長い話のなかで自分の勉強不足をすら悔いている。これは太宰の苦悩がキリストと同じものであることを認めたということであろう。

「”貴族だ”と御自分で仰言るように上品な風采。」

 の記述についても、富栄の恋が盲目的であった証拠としてよく挙げられているが、富栄の父母は宮家に奉仕する美容師であり、富栄も同じように宮家に出入りしているので本物の貴族を知っている。これも、軽口のたぐいであったら富栄はそれを軽蔑しただろう。日記は断片的であるから想像するよりほかはないが、太宰は「貴族」という意味をきちんと富栄に語ってもいるのではないだろうか。このとき、太宰は「斜陽」の執筆中である。「斜陽」において、貴族とは弱さの美しさの象徴として滅んでゆく人々である。それと同じものを富栄は太宰の中に見て、こうして書いたものであるように私には感じられる。太宰が「斜陽」において「貴族」にこめた思いは複雑である、富栄はその複雑な思想を自分のペンで再現することができず、このように端的な書き方をして、それが誤解を招いてきたのではないだろうか。
この日の日記からは二箇所が「斜陽」に引用されている。

 「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し」。

 戦闘、開始!

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2009年09月12日

相馬正一さん『太宰治の原点』


こちらの書籍が発売されていることを
知ったばかりで、内容については知りません。
目次に「斜陽」と太田静子の日記・・・という
記載がありますので、いつか読んでみたいと
思います。それにしても、発売されて3ヶ月
しか経過していないのに、amazonには既に
4冊の中古商品が並んでいます。

読んでいないので、内容についてはわかり
ませんが、太宰に関連する書籍がコンスタントに
売れていることを表しているのでは無いで
しょうか?。

『太宰治の原点』相馬 正一/著
出版社名 審美社
出版年月 2009年6月
ISBNコード 978-4-7883-4125-8
(4-7883-4125-5)
税込価格 2,940円
頁数・縦 273P 20cm
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032273037&Action_id=121&Sza_id=C0



この相馬正一さんが朝日新聞の青森版から取材を
受けて記事になった「青森ひと山脈 」というのが
あります。

その中の第4回に「太宰夫人と面会できず」という
大見出しの記事があります。昭和41年のことですから、
太宰の亡くなった昭和23年から20年近くが
経過しています。治子さんは18歳。津島美知子
さんが54歳の時のことです。

回顧展のいきさつを、あらためて読んでみると、
美知子夫人の太宰への思い入れが感じられて、
治子さんの「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」
がもしも、美知子夫人の生前に発刊されていたら、
心中穏やかで無かっただろうと思います。




「斜陽」のモデル太田静子さんの娘治子さんの津軽訪問が波紋 2005年09月17日

 ――研究者として知られるようになるにつれ、津軽を訪れる太宰の関係者を案内することも多くなる。

 「斜陽」のモデルとなった太田静子さんから、「一度でいいから娘に父親の故郷である津軽を見せたい」と頼まれました。太宰は静子さんとの間に娘をもうけていました。それが治子さんです。

 その時は、僕の方もあまり余裕がなかったので、そのままになっていました。そしたら、しばらくして奥野健男さんから連絡があり、出版社が治子さんの津軽紀行を出す企画があるので、案内してくれないかというんですよ。

 昭和41年(1966年)の夏、治子さんはまだ18歳で、「婦人公論」の記者と奥野さんが東京から同行してきました。

 小泊村(現中泊町)の越野タケさんにも会いに行きました。太宰が小さいときに子守をした人で、「津軽」に再会の場面が登場します。

 タケさん、治子さんを見て喜んでね。「おー、孫が来た、孫が来た」って。太宰を自分の子どものように思っていましたから、治子さんは孫のように思えたのでしょう。

 予定のところを回って、最後に東京に帰るときになって、津島家と太宰の間をとりもっていた五所川原の中畑慶吉さんが「治子さんを津島文治さんに会わせたい」というのです。

 文治さんは太宰の長兄で、当時は参院議員をしていました。心中未遂事件などでたびたび世間を騒がした太宰を勘当した人で、本当に治子さんに会ってくれるのか心配でした。

 みんなでタクシーに乗って青森に行き、恐る恐る文治さんの家に行ったら、ちょうど東京から戻ったばかりの文治さんが奥から出てきて、治子さんをジロリと見おろすのです。そして口から出たのが、「む、津島の顔だ。入りたまえ」という言葉でした。

 それから、治子さんと私たちも一緒に座敷に通され、その夜は文治さんの奥さんのれい夫人の手料理で大変な歓待を受けました。そのときは、文治さんはすでに太宰を許してたんですね。

 ――太田治子の津軽訪問は、後にちょっとした波紋を呼ぶことになる。

 間もなく、治子さんは雑誌に発表した津軽紀行で、このときの様子を書きました。その中で「弘前高校のS先生」と出てくるのが僕のことです。

 ところが、その後、太宰夫人の美知子さんを訪ねようとしたら、「差し障りがありますから」と断られてしまった。それまで、何度も太宰の話を聞かせてもらったり、資料を見せてもらったりしていたんですよ。

 後で、奥野さんに話したら、「いやー、僕もだよ」と言ってましたね。美知子さんにしてみれば、治子さんと文治さんの面会は、相馬と奥野が余計なことをしてくれたということだったのでしょう。

 それ以来、美知子さんが亡くなるまで一度も会うことができませんでした。

 もっとも、美知子さんとはその後も手紙ではいろいろとやりとりをしていましたから、まったく関係を断たれたということではありません。

 太宰が亡くなって没後20年に回顧展が開かれて以来、10年ごとに回顧展が開かれていました。本来であれば没後50年が一つの節目でしたが、美知子さんが47年目にやってほしいというのです。まだ50年にならないのにと戸惑いながら、僕も編集委員として、美知子さんと手紙で打ち合わせをしながら、95年に青森市の県近代文学館で「太宰治展」を開催しました。

 美知子さんが85歳で亡くなられたのは、それから2年後でした。自分が生きているうちに、もう一度太宰の回顧展をという思いがどこかにあったのかも知れません。



posted by ピアノ at 13:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月10日

太宰の遺書から伏せられた一文

ちょっと、太宰批判がエスカレートしてしまって、
ブログの趣旨を逸脱してしまっているようにも
思えますが、ネット上にあまりにも情報が少ないので
憶測に終始しないように注意しながら書かせて
いただくことにしました。


一般に、太宰治から妻の美智子にあてられた遺書は
以下のものとされています。(抜粋)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「美知様 誰よりもお前を愛していました」

「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、
堪忍して下されたく」

「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。
あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。
小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい
欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2番目の「長居するだけ・・・」の前に「太田という女あり、
なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の
上にも病気の上でも世話になりたり、」
という部分が
あったことは、どこかで記憶していたのですが、
ネット上にはほとんど見あたりませんでした。
唯一、「太宰府 山崎富栄と太田静子」というブログ
に東奥日報の記事として引用されています。(こちらの
ブログは大変勉強になります。)

昔、大学の図書館にあったようなマイナーな研究書
(文学界とか国文学とか)には引用されていたように記憶して
います。唐突で、「なんのことだろう?」と心にひっかかって
いた記憶が残っています。当時は、太宰の(小説以外の)
背景などは知らなかったので・・・。


太田治子さんが、新刊書で、ところどころで言及されて
いますが、「セイカツノコト シンパイスルナ」とか
「あなたひとりの生活のことなど、どうにでもなりますよ。
安心していらっしゃい。」と交際前に太宰が静子さんに
手紙を書いていることと、この遺書の非公開の部分
とは整合性がつかないと思います。子供が生まれて
2人になったら反故にできるのか?むしろ逆でなければ
敵前逃亡のそしりを受けることは免れません。

太宰が妻に対して、「太田という女が金の無心に来るかも
知れないが、相手にするな」と明示的に書き残すと
いうのは、どう考えても理解しがたい。友人に「子ばやい
女で困った」とか、「深入りした女がいて死にたいくらい」
とかグチをこぼすのは、多少くだらないが、しかたない
としても・・・。

また、静子さんへの遺書が無く(これは斜陽が遺書の
変わりとして太宰の中では完結しているのかも知れないが)
山崎富栄から太田静子に手紙をださせていることも
見逃せない行動です。この手紙の内容を太宰は知らなかった
かも知れませんが、少なくとも手紙を送った事実は把握
しているように思えます。しかし、内容から見て、
太宰がこの山崎富栄の手紙の内容を見たとは思えない。
太宰に見られることを想定して富栄が書いている風には
思えないことから、おそらく「太田さんには私が手紙を
書いておきましたからね!。その方が奥様にも娘さん達
にも良いでしょ。」「ああそうだね」と、太宰が「一筆
残す」と言い出す前に、一件落着にされてしまったように
感じます。

※連絡係に徹していたストレスをここぞとばかりに
 発散する。「わたしも」では無くて、「わたしは
 太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。」と、
 一方的に勝利宣言して手紙を送りつけた、山崎富栄
 の下品な攻撃を静子さんは本当にスルーできていた
 のでしょうか?。この手紙はあまりにもヒドイ。

憶測の域を出ませんが、死の直前の太宰は、隣にいる
山崎富栄を過剰に気遣い、もしかしたら、遺書の内容
にも富栄のコントロールが及んでいたのではないで
しょうか?。
(検閲までは無いにせよ、書いた後で富栄に「見せろ」と
 言われることを想定しながら太宰が書いた可能性は
 十分に予想できるのではないでしょうか?。)

本妻への敬意を表明することは、山崎富栄がお行儀よく
立ち位置を選んで、そこに納まり、お供することを
詫びることによって美化している風に思えます。
太宰も静子さんと治子さんのことは逃亡したい現実。
本妻に「一番愛してる」と言い残せるような隙間を
作っておくことは、富栄がお行儀の良い側室を
演じられます。太宰と富栄の利害が一致します。

※少しずつ、印税が入っていて、一般人に比べれば
 裕福な生活が出来ていたのだろうが、大地主の息子の
 経済観念では貧窮に近い意識が太宰にあったの
 かも知れません。全集の出版を想定していたと
 思えますが、それも死後のことなので、勘定に
 入っていなかったのかも知れません。だとしたら
 「救い」は残された本妻の美智子さんが全てです。
 無くなって数年後の檀一雄の行動に折衷してくれ
 なかったことは、かえすがえすも残念です。
(文壇や出版界が、太宰の版権を握る美智子さんを
 擁護したことも静子さんには逆風になったようです。)


檀一雄が太田母娘の困窮ぶりを見兼ねて津島美知子さんに
せめて「斜陽」の印税の内少しだけでも援助してもらえないか
と頼んだが、美知子さんは立腹してその場を立ち去った
http://oota-shizuko.seesaa.net/archives/200710-1.html






以下は、参考としてリンクとともに引用させていただき
ました。

●富栄が死の当日、同じ愛人の太田静子に宛てた手紙

「太宰さんは、お弱いかたなので、貴女やわたしや、その他の人達にまで、おつくし出来ないのです。
わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に死にます。 太田様のことは、太宰さんも、お書きになりましたけど、
後の事は、お友達のかたが、下曽我へおいでになることと存じます。」
http://www.gulf.or.jp/~houki/geijyutu/dazaiosamu.htm




 昭和23年6月16日、太宰と富栄が心中したときの東奥日報に、興味深い記事がある。

 ザラ紙●枚に書いた一通の遺書には
「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり、長居するだけみんなを苦しめ、こちらも苦しい、かんにんして下されたく、子供は凡人にてもおしかりなされまじく・・」
 とあった

 「太田という女あり、なんにも金銭の約束なし、山崎という女あり仕事の上にも病気の上でも世話になりたり」のくだりは公開されている遺書にはない。非公開の部分であるのか、誤報であるかどうかはわからない。
(http://olga1225.blog86.fc2.com/blog-entry-8.html)



posted by ピアノ at 10:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月26日

太宰治は自信家だった?

若い頃に太宰治の作品、人間失格などを何度も
読んだけれど、自信家であるような印象は
全くありませんでした。

読み手の人格によって、作品へのアプローチに
差があることは当然だとしても、そんなことは
若い頃にはわかりません。

仕事に余裕が出来て、中年になって文学作品を
読み直すことができて本当に有り難い。作家と
同年代だからこそ、はじめてわかるような、
感動があります。

太宰が入水した年齢を過ぎて、同じように家庭
を持つ境遇になってみると、「この人、思って
いたような人間じゃない!」と薄々勘づきはじめ
ました。

作品以外の資料を見ていると、その勘づきが
確信に変わります。それで、もう一度、作品を
読み直すと、意外と作り込んでいるんだなぁ・・
と作者の意図とは裏腹に、作者の人格があぶり
だされてきます。

こんな、文学作品の読み方は邪道なのかも知れ
ませんが、なかなか面白い。若い頃の太宰さん
の写真や言動を見ていると、自分が若い頃の
クラスメートに当てはめてみて、「高3の時の
あいつみたいな感じか・・」などと妄想を
ふくらませたり。

太宰さんに限らず、多くの大家と言われる人々も
神聖なものでは無く「動物としての男」の感情が
作品意外の行動や言動を探ると、それなりに見えて
くるように思えます。

その中でも、ちょっと太宰さんは「男」を抑えら
れていない方かな?。寂しがり屋などと、女性は
良い方にとらえがちですが、男から見ると、
だらしない感じがします。逆に、自由に振る舞えて、
うらやましい感じもするので、私のやっかみ
かも知れません。

※明治・大正と昭和初期の頃の”市井の風俗”で
 考えると、今より放漫であり、普通のこと
 だったのかも知れません。太田静子さんは
 市井の人では無かったので、太宰さんに対して
 それなりの手続きをしてから大雄山荘に
 招いています。
 

新聞のスクラップをスキャンしていただいた
のでアップしてみます。

太宰16歳「自信ある」.jpg

太宰優等生バッジ.jpg

太宰の銅像.jpg



posted by ピアノ at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

「太宰治情死考」 坂口安吾

妻の津島美知子さん(昔、都留高等女学校で教師をされていた)のことを記述しているのか、太田静子さんのことを書いているのか、定かでは無いですが、面白い記述なので備忘録しておきます。おそらく、奥様をおもんばかって書いたものと思われますが、小説家ならではの表現だと思います。

『とるに足る女なら、太宰は、その女を書くために、尚、生きる筈であり、小説が書けなくなったとは云わなかった筈である。』

青空文庫「太宰治情死考」 坂口安吾
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43137_30135.html


坂口安吾が「とるに足る女」で無い・・・と言っているのは、山崎さんのことと思われます。

太宰の肉体は、かなり衰弱していたようなので、差し引いて考えなければならないが、前日に電車に乗って、ひとりで出かけているくらいなので、座ったり寝たりしながら小説を書くことは、まだまだ可能だったと私は思っている。

ところで、奥様の名前をYahooやGoogleで画像検索しても、ほとんど見つかりません。長篠康一郎さんの著作である「太宰治文学アルバム」には女学校時代からの写真がたくさん掲載されています。笑ってらっしゃる写真が無かったように思います。奥さんをモデルにした作品はたくさんあります。当時、女学校の先生は恐ろしく厳しいというのが相場ですので、−夫婦間ではそれほどでも無いのかも知れませんが−娘さんには厳しく接していたのでは無いでしょうか。
ラベル:坂口 安吾
posted by ピアノ at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月05日

写真に見る、小山初代さん

小山初代さんの写真を、どこかで見たことが
あったのだけれど、どこで見たのかを思い出せ
なかった。ネットで調べても、まったく見つから
ないので、所蔵する本を探してみた。

少し探したら、長篠康一郎さんの著作である
「太宰治文学アルバム」の女性編にありました。

小山初代さんの写真

この写真は亡くなった年の初め、32歳の時に撮影された
ものらしい。

Wikipediaには「軍属の世話係をしているような男の愛人
になり、荒んだ生活を送っていた。」などと書かれているが、
写真を見る限り、そのような風には思えない。

太宰との心中未遂があったりして、暗い人のように
思い込んでしまいますが、この方と、田部あつみ
さんは、どちらかと言うと明るい人のように思え
ます。もちろん、太田静子さんも、ホウキと踊る
ほどですから、暗い人とは思えませんね。

皆さんは、どのようにお感じになりましたか?。



「ホウキと踊る太田静子」も、ぜひご覧ください
http://oota-shizuko.seesaa.net/article/14542009.html



ラベル:小山 初代
posted by ピアノ at 16:23| Comment(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月29日

井伏さんは悪人です

井伏さんは悪人です・・・と太宰さんが遺書に残した
ことは有名です。猪瀬直樹さんの「ピカレスク
太宰治伝」は、その言葉の真意に焦点を当てており、
実証的で非常に面白い作品です。

安藤宏「明かされた太宰メモ」を今回、はじめて
読んで、『如是我聞』を執筆している頃の太宰が
精神的に混乱していたことが確認できました。

このメモの文章は、世話になった井伏さんに対して
は少し言い過ぎのような気もします。しかし、井伏さんが
盗作に近いもので評価されてしまったことを、一時は
後ろめたいことと思っていたはずなのに、晩年になって
開高健に対しての「良心をなくしたらいい」と発言した
ことを知ると、その批判もなかなか的を射ているな・・
と納得。

老年の井伏鱒二の開き直りにも取れて、ちょっと
あきれてしまいました。



以下は引用です。

『如是我聞』は太宰治最晩年のエッセーで、志賀直哉に激しく攻撃を加えているさなかに太宰が命を絶ったこともあって大きな反響を呼んだ作品である。今回の資料でもっとも話題になると思われるのは師匠の井伏鱒二を激しく攻撃している部分が、その下書きに見える点だろう。少々長くなるが関連部分をピックアップしておきたい。

【井伏鱒二 ヤメロ といふ 足をひっぱるという。『家庭の幸福』ひとのうしろで、どさくさまぎれにポイントをかせいでいる。卑怯、なぜ、やめろというのか。『愛?』私は、そいつにだまされて来たのだ。人間は人間を愛することは出来ぬ。利用するだけ。思えば、井伏さんという人は、人におんぶされてばかり生きて来た。孤独のようでいて、この人ほど『仲間』がいないと生きておれないひとはいない。井伏の悪口を言うひとは無い。バケモノだ。阿吊みたいな顔をして、作品をごまかし(手を抜いて)誰にも憎まれず、人の陰口はついても、めんと向かってはなにもいわず、わせだをのろいながらわせだをほめ、愛核心、ケッペキもくそもありゃしない。最もいやしい政治家である。ちゃんとしろ。(すぐ人に向ってグチを言う。いやしいと思ったら黙って、つらい仕事をはじめよ)。私はお前を捨てる。お前たちは、強い。(他のくだらぬものをほめたり)どだい私の文学がわからぬ。わがものみたいに見えるだけだろう。聖書は屁のようなものだという。実生活の駈引きだけで生きている。イヤシイ、私は、お前たちに負けるかも知れぬ。しかし、私は、ひとりだ。<仲間>を作る。太宰は気違いになったか、などという仲間を。ヤキモチ焼き。悪人、イヤな事を言うようだが、あなたは、私に、世話をしたようにおっしゃっているようだけど、正確に話しましょう。かつて、私は、あなたに気にいられるように行動したが、少しもうれしくなかった。】

何とも衝撃的な言葉の数々である。太宰の遺書に『井伏さんは悪人です』という一筆のあったことが従来から語り伝えられ、これまでさまざまな憶測を呼んできたが、今後この問題を正面から考える際の重要な手がかりになるのではないか。(安藤宏「明かされた太宰メモ」?「東奥日報」平成13・10・15)
http://kyotaro.web.infoseek.co.jp/tenbo/02cur01.html より引用させていただきました)



『井伏鱒二の世界』(NHKTV)で開高健が「書く気が起こらない、そうしたとき、どうしたいいのか」と井伏に教えを乞うた。井伏は「それは自重するからでしょう。良心があるから、良心をなくしたらいい」と答えていたのがとても印象的であった。NHKでは井伏の代表作として『山椒魚』と『黒い雨』を挙げていたが、この両作品とも最も非良心的として物議をかもした作品である。だが、これに対し太宰治は、井伏とは反対に最も良心的な作家ではなかったか。
石塚氏が述べているように、太宰と井伏とでは性格的に“水と油”であったろう。従来の“伝説太宰治論”では井伏鱒二は“太宰治の大恩人”ということで、文壇と国文学界では五十余年も通してきた。が実際にはその反対であったが、井伏と親しかった太宰の長兄・津島文治はどうだったであろうか。
http://kyotaro.web.infoseek.co.jp/tenbo/02cur03.html より引用させていただきました)
ラベル:井伏 鱒二
posted by ピアノ at 21:37| Comment(0) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月16日

太宰17歳の写真

K大学!の文学部国文学科でいっしょだったK君が
スクラップをメールで送ってくれました。K君、貴重な
情報をいつもありがとうございます。
太宰17歳
太宰治の17才『柔和な丸刈り』



太宰17歳
記事詳細


太田治子さんの写真がお父さんの若い頃にそっくり!
ここをクリックして比べてみてくださいね。

posted by ピアノ at 18:27| Comment(1) | 太宰治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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