2006年03月12日

太田静子の本籍地

五木寛之 太田さんには言葉の詑りはないようですね。
太田治子 いえいえ。そもそも私は本籍が大分なんです。
五木寛之 ということは、お母様が大分のご出身なんですか?
太田治子 はい。血は大分ですけれども、育ちが滋賀県の琵琶湖のほとりなんです。
     で、私は神奈川県生まれで、東京育ちですよね。にもかかわらず、時として
     ひよいとやっぱり関西のアクセントが出たりします。例えば、「実は・・・」
     っていうとこを、「つは・・・」って言ったりして。そういうところは、
     やっぱり母の影響というものがあるようです。

(中略)

五木寛之 なるほど。そうですか。お母様は大分の方ですか。
太田治子 ええ、本籍が。だから、母は九州の女性で。
五木寛之 じゃ、太田さんの体質の中には、お父さんである太宰治の津軽のほうのものと、
     お母さんの九州のほうのものとがあるわけですね。
太田治子 そうなんですよ。(笑)


【言いだしかねて−太田治子対談集−より】


対談集の中の、五木寛之との対談「九州の血が流れるシャイな作家」で
太田静子さんの本籍地が大分であることが発言されています。





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言いだしかねて −太田治子対談集−

言いだしかねて −太田治子対談集− 父、太宰治そして 愛、家庭を語る

昭和57年8月13日 第一刷発行

ISBN :

定価 :1,200円

発行者:株式会社主婦の友社

著者 :太田 治子(おおた はるこ)

備考 :2006年時点で、新刊本の入手は不可能のようです。

    太田治子さんが灰谷健次郎、角川春樹、五木寛之、落合恵子、瀬戸内寂聴
    など16人と対談している。太田静子さんの情報は比較的少ない。



太田静子







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2006年03月09日

ホウキと踊る太田静子

隣の西久保家には、当時、お米に換えた静子の文机や、小さな戸棚がつい先ごろまで残されていたそうである。この家の建築に携わった豊吉青年の長男で、その頃はまだ幼児だった、現ご当主の記憶にある太田静子は、天真欄漫な瞳の大きいお姉さんで、大きな声で歌を唱い、箒と踊りながら座敷の掃除をしていた姿が印象に残っているという。

昭和二十三年六月十三日、燃焼し尽くしてグッド・バイした太宰の魂はいつまでもいつまでも人々の心を虜にしている。斜陽族という流行語を生むほど、戦後のそれこそ彷徨している民衆の心の中に割り込み、その後もずっとベストセラーを統けている小説『斜陽』とともに、この家も「斜陽の家」としての歴史を担う役割を受け持つことになってしまった。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】



太田静子について、「天真欄漫な瞳の大きいお姉さんで、大きな声で歌を唱い、箒(ほうき)と踊りながら座敷の掃除をしていた」という記憶が残されているのを読んで、戦後の時代の「太宰治の愛人・太田静子」と、かけ離れた印象を持たれた方も多いのではないでしょうか?。

歳を重ね、老齢に達するまでの太田静子さんも、若い頃と同様に明るい方だったようです。明るく、気丈でいさぎよい雰囲気が、筆者の太田静子さんの印象です。老齢の頃の写真を拝見するのが願いですが、未だ叶えられておりません。



ラベル:太田静子
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「斜陽の家」となる

さて、この大雄山荘が「斜陽の家」となるきっかけは、昭和十八年初冬、前出の大和田氏の計らいで太田静子母娘がこの家に住むようになったことである。
以前から静子は太宰治の「虚構の彷徨」に強く引かれて、この作者を人生の師と仰ぐことを決めていた。次第に尊敬は恋に変じていた。静子がまだ西片町に住んでいた頃に、太宰と幾度か会って自分の作品を見て貰ったりしていたが、太宰から、「あなたは日記をていねいにお書き
なさい」と言われたので、下曽我に住み始めてから一生懸命書いていた。
昭和二十一年九月、津軽へ疎開している太宰に手紙を出し、太宰は一年半の津軽疎開から妻子とともに十一月、三鷹の自宅へ帰った。その後、静子は日記ができた事、こちらの空気が澄んで美しい事などを書いてたぴたび下曽我への来訪の誘いの手紙を出した。
昭和二十二年二月二十一日、太宰は下曽我駅に降り立ち、満開の梅の大雄山荘に滞在したのだった。その満開の梅は、「二月には梅が咲き、この部落全体が梅の花で埋まった。一中略一朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息が出るほど美しかった」と『斜陽』に書き込まれたが、大雄山荘の仔まいは太宰が考えていた『斜陽』の雰囲気にぴったりな舞台であった。

太宰は静子の日記を持って冊巾英光が疎開していた伊豆の三津浜へ行き、安田屋旅館に止宿して三月上句まで掛かって一、二章を書き終え、六月に完成させた。
その年の十一月十二日に静子は女の児、治子を生んだ。
太田静子の手記によれば、
「二、三日の予定がのびて、五日目の朝、支那間の机の上に原稿用紙をひろげて、

  斜陽 太宰治

それだけお書きになって伊豆へ立たれる事になりました」とあり一『斜陽』の中の家の描写は、住んでいた静子の日記が基になっているため、この家のすべてが小説の舞台となっている。半世紀経った今でもまったく当時のままで残されているので、小説の中にたたずんでいるような気がしてくる。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】

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高浜虚子

完成した大雄山荘へは、あの只中にあった時の足繁く出向いた情熱は薄れて、自分はほとんど使わず、感銘の共有できる人にだけ使って貰うことを喜んでいた。
昭和十二年二月七日に上の畑楠窓の肝煎(きもいり)で、高浜虚子が武蔵野探勝の句会をこの家で催した折には、白分の長女・都に振り袖を着せて客の接待を命じている。また、その文中にある木瓜酒とあるのは加来家で造ったシドミの果実酒のことであったそうである。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


加来金升氏が大雄山荘の使用を許した人々が、高浜虚子をはじめとする文化人などであったことを窺わせる。



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太田静子の部屋

「加来家下曽我別荘庭園設計図」では、運動場と記されている所に深い本格的な池を造り、その横の水泳池と書かれた部分を浅い子供の水遊ぴ場として造っているのだが、風景としては池の渚を思わせる浅瀬となっている。彼の収集した骨董の宝庫となり、さらに後に太田静子が一、二年住んだ池の端の庵は、設計図では子供部屋となっている。しかし、これも六月十八日から八月三十一日までかかって職人親子が葺いた茅葺き屋根のお堂となって仕上がっているのである。重厚な木彫りの飾りが付いしとみた板戸を母屋と同じ屠風畳みの扉にし、腰高の窓には蔀(しとみ)が付けてあってとても子供部屋というような軽やかなものではない。

(中略)

日記の中で建前をしている茅葺き屋根の庵があったが、我が家が住み始めた時にはもうな
かった。朽ちてしまったものと思っていたが、これは解体して本宅に持って行ったのだと最近
聞いた。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


日記とは、大雄山荘の向いの西久保さんの長男・豊吉さんという青年が克明につけた日記のこと。庵の移動時期は不明だが、静子さんが母親と暮らし始めた頃に庵を使用していたものと思われる。




posted by ピアノ at 22:43| Comment(0) | 大雄山荘 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平成4年春頃

もうどうにも追い詰められた父の老いの深刻さは、去年一年間、私の全身を霞網のように覆っ
ておりましたが、その上に、この家を取り壊す話が降って湧いたように突然起こったのです。
去年の春ごろは、直しても直しても浸み込む雨漏りで、この家が自滅してしまうかもしれない
と、不安でたまらなかったのに、今度は壊されてしまうかもしれないという不安が募って、家
の中の柱を撫でて歩きながら、「頑張るのよ。絶対に壊されないように頑張るのよ」
と話しかけて不安感を紛らせておりました。

【『斜陽』の家 雄山荘物語 林和代(著)より】


最後の住人、林和代さんが上記著書の中の「太宰治様へ一筆」で述べられています。
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『斜陽の家』雄山荘物語 

『斜陽の家』雄山荘物語 別荘を彩った太宰治、高浜虚子たち

1994年6月9日 初版印刷
1994年6月15日 初版発行

ISBN :ISBN4-8083-0487-2 C0095

定価 :1,500円

発行者:東京新聞出版局

著者 :林 和代(はやし かずよ)
    1937年旧満州(中国東北部)
    ハルビン生まれ。
    現在、アトリエ柳 主宰。
    東京都中央区在住。

備考 :2006年時点で、新刊本の入手は不可能のようです。



大雄山荘




posted by ピアノ at 11:31| Comment(0) | その他、引用書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年3月の大雄山荘

無くなっているものと、信じ込んでいた大雄山荘が残されていました。

2006年3月時点ではお屋敷も門扉も残っています。「門を壊さないで」と
書かれた札が汚れてしまっていて、「なんとかしたい」と考えましたが、
もう一度3時間かけて行こうかどうか迷っています。
(勝手に架け替えて良いものだろうか?)


大雄山荘

大雄山荘



門の中には入れません。お屋敷は昭和5年に建てられたそうですが、
思ったより綺麗に保存されているようです。最後の住人、林和代さんが
平成5年の年末までお住まいだったようですが、その頃でさえも雨漏り
の修理が大変だったそうなので、なんとか早く手を入れないと物理的な
問題で解体に向かってしまうのでは?、と心配です。


大雄山荘


大雄山荘に限らず、失われそうで存在している昭和の建造物が筆者には
とてもいとおしいです。そのなかでも大雄山荘には太宰治や高浜虚子
などの由縁があり、存続するチャンスがたくさん残されています。

また、中期の住人である太田静子さんが「太宰治の愛人」などと偏って
認識されていることを払拭することで、大雄山荘の文化的・歴史的価値
が高まることも期待しいます。

なんとかして、いつまでも残されるようにインターネットを通して活動
していきたいと感じでいます。




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